成樹学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/25 22:51 UTC 版)
「ジュリア・カロザース」の記事における「成樹学校」の解説
夫妻がミッションを辞任することで、長老派女学校の生徒は退学を希望して廃校になった。ジュリアの勧めで2人がヤングマンの女子寄宿学校へ転校したが、他の生徒は日本独立長老教会に加入したので、教会附属の女学校を開くことになり、原胤昭、戸田欽堂らの出資により、銀座三十間堀に校舎を購入し、ジュリアを教師に招いて、1876年に新しい女学校が開設した。 1876年(明治9年)4月22日に横浜から東京丸に乗り、上海に向かう。上海で一週間過ごした後に、日本に戻る。クリストファーは単身で長崎経由で兵庫で下船し、広島へ向かった。ジュリアは5月11日に単身で横浜に向かい、成樹学校へ向かった。しかし、ジュリアは体調を崩して女学校を辞任し静養していた。クリストファーが夏休みになり8月16日には夫妻で横浜から広島に向かった。 広島でクリストファーは広島英語学校の教師になり、そこで大和田建樹を教え、ジュリアも大和田にオルガンの奏法を教えようとした。ジュリアは広島でも体調を崩して、アメリカに帰国することになった。1877年(明治10年)2月22日に横浜に着き、3月3日にペキン号に乗り日本を離れた。ジュリアが帰国する際に夫のクリストファーは立ち寄ることはなかった。アメリカに帰国したジュリアは両親と一緒に生活を始めた。
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