日本軍の王宮占領・日清開戦とは? わかりやすく解説

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日本軍の王宮占領・日清開戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)

日清戦争」の記事における「日本軍の王宮占領・日清開戦」の解説

朝鮮日清両軍撤兵要請したものの、両軍とも受け入れなかった。6月12日、「京城目下形勢ニテハ、過多兵士進入ニ対スル正当ノ理由ナキヲ恐ル」と打電してくる大鳥公使に、なんらかの積極的な方策与えようとした陸奥は、伊藤首相協議したその結果15日閣議伊藤は1案を提出した。1)朝鮮内政改革日清共同進める、2) それを清が拒否すれば日本単独指導する方針閣議決定した。出兵目的当初の「公使館居留民保護」から「朝鮮国政改革」のための圧力変更された。当時解散総選挙追い込まれていた伊藤内閣国内対外強硬論無視できず、成果のないまま朝鮮から撤兵させることが難し状況にあった21日清国日本提案拒否し、「事態平静に帰した以上、あくまで撤兵先決である。清国朝鮮内政干渉する気はない。まして朝鮮独立国称している日本内政干渉権利はない」と反駁した。日本側はこの清国拒絶受けて伊藤内閣参謀本部海軍軍令部合同会議で、さきに大鳥公使要請により仁川とどまっていた混成旅団残部輸送再開決定し23日京城到着した同日、清の駐日公使内政改革協定提案送付された(第一次絶交書)。27日出発延期していた混成旅団後続部隊が8隻の輸送船つらねて仁川にはいり、翌日上陸した日本軍はこれで牙山清国軍の3倍に達したとみられた。27日陸奥、「今日形勢ニテハ行掛上開戦ハ避クベカラズ。依テ曲ヲ我ニ負ハザルリハ如何ナル手段ニテモ執リ、開戦口実ヲ作ルベシ」と訓令。まさに開戦直前の状況になった。 しかし28日条約改正交渉中のイギリス外相調停乗り出す動き見せた。更に30日ロシア公使ヒトロウォ(ロシア語版)は陸奥会談、「ロシア政府は、日本朝鮮政府日清両国撤兵という希望うけいれるよう勧告し、かつ日本清国同時撤兵うけいれいならば日本政府重大な責めを負うことになる旨忠告する」と申し入れた。これで日本側の開戦気運には一気ブレーキかかった7月2日陸奥はヒトロウォにつぎのように回答した。「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、反乱そのものもなおまったく跡を絶ついたっていないのではないか考える。日本政府侵略意思はないし、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」。7月9日清の総理衙門総領大臣外務大臣に相当)慶親王が、「日本撤兵」が前提としてイギリス調停案を拒絶した10日ドイツとの対立重要視していたロシア本国政府は、これ以上朝鮮問題深入りすることを禁じた同日、駐露公使西徳二郎より、これ以上ロシア干渉しない、との情報外務省とどいた11日伊藤内閣は清の調停拒絶非難するとともに、清との国交断絶表明する第二次絶交書」を閣議決定した。12日陸奥大鳥公使に「今ハ断然タル処置ヲ施スノ必要アリ。故ニ閣下ハ克ク注意シテ世上非難ヲ来サザル様口実ヲ撰ビ、之ヲ以テ実際運動ヲ初ムベシ」と訓令14日日本の「第二次絶交書」に光緒帝激怒し、帝の開戦意思李鴻章天津市)に打電された。15日牙山の清軍に平壌への海路撤退命じた18日海路撤退困難なため、増援要求してきた牙山の清軍に対し、2,300人を急派することとした(豊島沖海戦発端)。なお16日懸案日英通商航海条約調印され(ただし悲願一つ領事裁判権撤廃」を達成したものの、8月27日勅令による批准公布まで発表伏せられた)、伊藤内閣にとって開戦大きな障害なくなった7月20日午後大島公使朝鮮政府に対して、1)清国宗主権をみとめる中朝商民水陸貿易章程廃棄、2)属邦保護名目として朝鮮の「自主独立侵害」する清軍の撤退について、22日までに回答するよう申し入れた。この申し入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば日本が代わって駆逐する、との含意があった。22日夜半朝鮮政府は、1)国内改革自主的に行う、2)乱は収まったので日清両軍撤兵することを回答した7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団歩兵四箇大隊など)が漢城に向け進軍開始朝鮮王朝臣下多く逃走し国王高宗身を潜めていたところを日本軍保護された。大鳥宮廷参内して高宗から「(国王である自分は)日本改革案に賛同していたが、袁世凱意向受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し改革実現するために興宣大院君国政改革全権委任すること提案同意した同日のうちに大院君景福宮入って復権果たしたが、老齢興宣大院君時勢疎く政務渋滞見られたため、日本金弘集への実権移譲求め大院君了承した日本政府朝鮮政府に対して牙山駐屯する清軍を撤退させることを要請行ったが、朝鮮王朝清国報復怯えて清国との絶縁などの日本の要請拒み続けており、大鳥圭介強硬な態度屈して日本の要請応じたが、その内容大鳥落胆させる消極的なものであったしかしながら、清軍を朝鮮から退去させるために日本軍攻撃する名分を得ることができたため、日本戦争開戦準備始める。2日後25日豊島沖海戦が、29日成歓の戦いが行われた後、8月1日日清両国宣戦布告をした。 なお後日、開戦前の状況について陸奥宗光は、次のように回想した外交にありては被動者〔受け身〕たるの地位取り軍事にありては常に機先制せむ。 — 『蹇蹇録』 もっとも、一連の開戦工作について明治天皇は、「朕の戦争非ず」と漏らした伝えられている(しかし広島大本営精勤し、後年その頃懐かしんだ)。また、開戦前夜海軍大臣西郷従道海軍中将について次のように伝えられている。 北洋艦隊優勢なるを憚(はばか)るが為に躊躇ちゅうちょ)したり。 — 外務次官林董回想録『後は昔の記』

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