日本軍の爆撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 14:48 UTC 版)
南京の大校場飛行場、南昌の三家店飛行場とともに華中方面の主要飛行場であったため、第2次上海事変勃発から間もない8月20日と22日に一連空による空爆が実施されたが、揚子江の増水で飛行場が水没していたため、いずれも飛行場を確認できず帰投した。 その後、9月22日の広東攻撃を以て同方面の中国空軍の活動を封止したと判断、また中国政府が漢口に移動する疑いがあったため、戸塚指揮官は漢口攻撃を決行。しかし、予定の23日は天候不良のため24日決行となった。鹿屋海軍航空隊の陸攻14機は日没頃、製鉄所、漢陽兵工廠などを空爆、また3機と交戦し2機撃墜を報告するが飛行場を発見できず、帰還中に発見するが爆撃は出来なかった。 1938年1月4日14時22分、一連空陸攻23機(鹿空11機、木更津海軍航空隊派遣隊12機、馬野光少佐指揮)が飛来し、60㎏陸用爆弾65発および250㎏陸用爆弾14発を投下、大型機6、小型機5の地上破壊を報告、「相当熾烈」な対空砲火以外の応戦はなく損害なしとされる。同じく護衛で飛来した二連空艦戦13機(田熊繁雄大尉指揮、12空3、13空11)は、張偉華中尉率いる第5大隊24中隊・25中隊の混成8機(カーチス・ホークⅢ(英語版)(新ホーク)およびカーチス・ホークⅡ(英語版)(老ホーク)7機およびフィアット1機)、ソ連空軍志願隊のI-16、計10数機と遭遇、新ホーク・老ホーク各2機の撃墜を報告。中国側は3機の撃墜、中国人飛行士2名(中国人飛行士1名とソ連人飛行士2名とも)が戦死したとする。 5日、陸攻22、艦戦17(12空5、13空12)を以て漢口・武昌飛行場を一斉爆撃を企図する「電令作第一号」が発せられた。翌日、鹿空の森永良彦大尉率いる陸攻6機は、武昌飛行場爆撃に向かった加藤唯雄中佐の5機より分離し14時5分漢口に飛来、60㎏爆弾および250㎏爆弾を投下し大型機2機を破壊した。同時刻、三原元一大尉率いる木更津空12機も飛来し60㎏爆弾を投下。三原大尉指揮の第1中隊は2機に直撃弾、3機に至近弾、広木武大尉指揮の第2中隊は中型機2機、小型機5機の爆破、格納庫に8弾、附属建築物に4弾、飛行場に約30弾の着弾を報告した。 11日、南京飛行場を発した木更津空の小谷雄二少佐指揮の九六陸攻第1大隊9機および三原元一大尉指揮の第2大隊6機、鹿屋空の馬野光少佐率いる8機が第二連合航空隊の九六艦戦15機とともに11時55分ごろ飛来し、60㎏爆弾および250㎏爆弾を投下、それぞれ飛行場内の飛行機、格納庫、滑走路を破壊した。 1月27日午前10時、菅久恒雄少佐(兵52期)率いる木更津空96式陸攻6機、鹿屋空5機が、2連空96式艦戦12機の掩護の元、北方より飛来し60㎏爆弾を投下。搭載の照準器が氷結のため視界不良だったが、格納庫2棟をそれぞれ炎上させ、また小型機5機を爆破、大型機1機への至近弾を報告した。中国側記録では航空機を上空に避退させていたため損害無し。 2月8日15時40分ごろ、蚌埠飛行場を発した一連空19機のうち、得猪治郎少佐指揮する鹿屋空13機(柴田弥五郎大尉の木更津空6機は漢陽兵工廠を爆撃)が飛来し、60㎏爆弾114発、250㎏爆弾10発を投下、大型機1機への至近弾、兵舎1棟炎上を報告。また護衛の艦戦が空戦を行った。AP通信は、中国側は飛行場に甚大な被害、また兵舎数棟が爆破され15名が死傷、迎撃に上がった1機が撃墜され搭乗員2名が死亡したと発表した。
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