日本軍の苦戦の様相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 07:14 UTC 版)
「インパール作戦」の記事における「日本軍の苦戦の様相」の解説
優位に立つ連合軍は、日本軍陣地に対し間断なく空爆と砲撃を繰り返した、兵士達は生き残るために蛸壺塹壕にずっと潜り込んでいるしかなく、反撃などは夢のまた夢であった。そのような状況下で雨季が到来すると、塹壕は水浸しになった。塹壕構築のための資材は満足に支給されるはずもなく、ありあわせの道具や素手で各自が掘った塹壕では、排水溝の設備など望むべくもなかったからである。砲撃のため水浸しの塹壕から抜け出ることができず、ずっと水に浸かっていたため皮膚が膨れ、損壊する塹壕足となる兵士が続出、そこからさまざまな感染症が広まる原因となった。 このため前線では、日英双方にマラリアや赤痢などが蔓延(まんえん)し、祭師団長の山内正文中将は、重病により担架の上で指揮を執らなければならなくなった。幕僚が病身の師団長のためにパンを焼かせたり、洋式便座を担いだ侍従兵を連れさせたりしたが、この様子を見た将兵の士気は下がった。6月10日に山内中将は病気の悪化を理由に、柴田夘一中将と師団長職を交代するも、2カ月後に収容先のメイミョウで客死した。 日本軍の伝統として、補給が軽視されており、河舟・車両等機械力による大量補給は殆ど行われなかった。たまさかそのような手段が確保されたとしても「食糧よりも武器弾薬」という方針により餓死寸前の前線に食糧が届けられることは乏しく、糧食は集積所に放置され、どんどん腐敗していった。 そのため、前線の兵士は「食うに糧なく、撃つに弾なし」という、もはや戦闘どころではない状態に置かれた。ある部隊では、野砲はあっても砲弾の割り当ては、1日にたった2発だったという。また第15師団の生存者が証言するところによれば、弾薬が尽きた部隊は、投石で抵抗するしかなくなっていた。 作戦テコ入れのため、弓師団に着任した田中信男少将は早速配下部隊を視察した、しかし、ある中隊長の軍刀を抜くと真っ赤に錆びていた。彼は中隊長を叱責し、その場にいた全将校の軍刀の検査を行ったところ、ほぼ全員の軍刀が錆びていることが判明した。激怒した田中は、部隊長に今すぐ部下に軍刀の錆びを落とさせるよう命じた。しかし、誰一人として軍刀を磨き錆を落とす将校はいなかった。連日の豪雨と泥に浸かり続ける戦場で軍刀を維持する方法はないと分かりきっていたからである。 食料は、現地住民から軍票との交換により入手しようとしたが、現地は小さな村がわずかにあるだけで、部隊を賄えるだけの食料を入手するのは不可能だった。飢餓に苦しんだ日本兵は、力尽きた味方の死体を食べて飢えを凌いだ。作家の火野葦平はインパール作戦に従軍取材をし、当時のメモに「前線にダイナマイトを100k送ったら50kしかないと報告がきた。兵隊が食うのである」と書き記した。 撤退中はさらに悲惨な状況となり、第31師団の兵士は補給地点が村にあると信じて、険しい山道を選択したが、ここでインドヒョウに捕食されたり、弱った状態で倒れた者がハゲタカに襲われたりして、動物による食害を受けた(歩いている間は襲われないが倒れたらすぐに群がってきた)。また、苦労して村にたどり着いても補給はなく、徒労に終わった。撤退中の兵士達は、既に武器を捨てていたが、食糧が手に入った場合に備え、飯盒だけは絶対手放さなかった。
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