日本軍の軍評定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
明軍の参戦を受け、朝鮮奉行である石田三成・増田長盛・大谷吉継、ならびに秀吉の上使・黒田孝高らは、漢城に諸将を呼び、軍評定を開いた。 この評定で「今年中の唐入りの延期」「秀吉の朝鮮入りの中止」、この2つを秀吉に進言することが決まった。 黒田孝高は、漢城から北へ1日以内の距離に砦を築き、漢城の守備に力を注ぐことを提案。しかし、小西行長は明軍の救援などありえないと主張し、平壌に戻ってしまった。 なお、加藤清正はオランカイに行っていたため、この評定に参加できなかった。後に石田三成らは清正を訴えた際、理由の一つとしてこの件を挙げている。一方、清正からすれば咸鏡道派遣の際に最も危惧して八道国割に反対の理由としてきた事態(緊急の合流に間に合わない事態)が起きたことに反発し、三成との関係が悪化するきっかけになった。 8月22日、延安の戦い。 8月29日、長林浦海戦。
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