日本軍の防備とは? わかりやすく解説

日本軍の防備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 22:34 UTC 版)

マキンの戦い」の記事における「日本軍の防備」の解説

一方日本軍太平洋戦争開戦直後マキン無血占領して以来守備隊は約70名しか置いていなかった。 この守備態勢見直きっかけとなったのは、1942年8月17日に、221名のアメリカ海兵隊が2隻の潜水艦マキン上陸したマキン奇襲事件だった。当時マキンには海軍陸戦隊64名など73名(ほかに民間人2名)の日本軍がいたが、戦闘壊滅した日本軍救援部隊到着する前にアメリカ軍引き揚げてしまった。 この失態日本軍ギルバート諸島戦略的な重要性気づかせることとなり、1942年12月以降日本軍は島の防備強化開始した。しかし、戦況悪化し戦域兵力派遣する必要に迫られていた日本陸軍は、中部太平洋方面への兵力配置には消極的で、ギルバート諸島防衛海軍海軍陸戦隊が担うこととなったその後も、中部太平洋方面防衛態勢協議していた陸海軍であったが、ガダルカナルの戦いでの痛い経験から海軍占領地域に陸軍部隊派遣躊躇し続けていた陸軍も、1943年3月開催され陸海軍作戦課における作戦会議によって、ギルバート諸島陸軍部隊を「1年以内」と時限付き派遣することを決定した1943年4月12日大本営南海第1守備隊ギルバート諸島派遣発令した南海第1守備隊歩兵第34連隊歩兵第6連隊歩兵第68連隊歩兵第18連隊から各1個中隊の兵力抽出して静岡県編成され5月1日特設巡洋艦盤谷丸」でタラワ向けて出発した南海第一守備隊戦力指揮官藤野孫平陸軍中佐含めて801人(本部歩兵4個中隊〔1コ中隊は、小銃3コ小隊第4小隊機関銃1、速射砲1、大隊砲1〉〕、砲兵1個中隊、診療班)であった。しかし、5月23日ヤルート付近で、アメリカ軍潜水艦ポラック」の雷撃受けて盤谷丸」は沈没南海第1守備隊指揮官藤野以下500人が戦死し生存した301人はヤルート上陸して同島の守備につくこととなり、ギルバート諸島への派遣見送られた。 5月末にはアッツ島の戦い守備隊玉砕日本軍にとって離島防衛喫緊の課題となったギルバート諸島にも9月から10月までにはアメリカ軍侵攻予想していたが、先の南海第1守備隊遭難もあって陸軍ギルバート諸島への部隊派遣には消極的であり、参謀総長杉山元大将は「アンダマン諸島ニコバル諸島陸軍作戦に関係があるから陸軍部隊出してもよいが、ギルバート海軍で担当してもらえ」と述べている。その後陸海軍作戦課と連合艦隊参謀入れた離島防衛方針協議続けられたが。アッツ島玉砕の際には連合艦隊支援得られなかったことに対す陸軍不信感などもあって、陸軍姿勢硬化していた。それでも最終的に中部太平洋諸島への陸軍部隊増強決定したが、ギルバート諸島防衛海軍担当決められた。 陸海軍協議中にもギルバート諸島海軍による戦力強化進んでおり、1943年2月15日には第3特別根拠地隊横須賀第6特別陸戦隊改編)が設置されて、地上施設航空施設増強が行われた。日本軍主力飛行場構築されタラワ配置されたが、マキンにも幅30m、長さ75mの飛行艇及び水上機滑走台が整備されて、それを守る市河中尉指揮する横須賀第6特別陸戦隊分遣隊243人が配置された。 日本軍マキン侵攻してくる敵の戦力せいぜい1個大隊程度想定しており、重火器としては、8cm砲3門、四十口径三年式八糎高角砲3門、ホ式十三粍高射機関砲12丁しか配備されていなかった。それでも市河鍛えられていた兵士士気高く、3倍程度の敵が攻めてきても撃退できると意気軒高であった。しかし、実際に侵攻してきたのは、戦闘部隊では23倍もの大軍であった

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日本軍の防備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 16:24 UTC 版)

アドミラルティ諸島の戦い」の記事における「日本軍の防備」の解説

一方日本軍アドミラルティ諸島に第51師団輜重兵51連隊主力海軍88警備隊、第101設営隊など弱体な守備隊配置していた。マヌス島のロレンガウ(英語版)(ロレンゴウ)と、ロスネグロス島ハイン付近モモテ現在のモモテ空港英語版))にそれぞれ飛行場作ってラバウルトラック島ニューギニアを結ぶ中継基地などとして利用していた。 日本側は、1943年末になると連合国軍アドミラルティ諸島への侵攻警戒しはじめ、パラオ再建中の歩兵第66連隊守備隊として送ることにした。ところが、歩兵第66連隊補充要員再編成され部隊海上輸送中に次々撃沈され、届かなかった。大本営はすでにアドミラルティ諸島などの南東方面見切りをつけつつあったため、これ以上増援部隊を送ることには慎重だった他方現地第8方面軍司令部は、アドミラルティ諸島よりもラバウル攻略戦先に起きると予想しており、アドミラルティ諸島防備兵力割きたくなかった。それでも、索敵難しい月暗期となる1944年昭和19年1月末に敵襲の危険があるのを放置できず、ニューアイルランド島所在独立混成第1連隊第2大隊763名)と、ラバウル所在の第38師団歩兵229連隊第1大隊主力343名)が2月初旬までに増派された。すでに日本側に制空権が無いことから、これらの増援部隊駆逐艦での鼠輸送潜水艦による輸送しなければならない状況だった。輸送援護のために飛行63戦隊一式戦闘機12機がハイン飛行場降りたが、直後空襲壊滅してしまった。ラバウル方面からの駆逐艦全面撤収決定に伴い1944年2月10日予定され鼠輸送最終便兵員470人・物45トン)は中止となった2月17日潜水艦伊6」が大隊砲2門を運んだのが最後補給となった最終的に日本軍守備兵力は約3,800となった重火器は数門の歩兵砲海軍36防空隊対空砲程度しかなかった。弾薬食糧などの物資不足していた。これら日本軍部隊指揮は、輜重兵51連隊長江崎雄大佐が執った。陸軍主力ロスネグロス島海軍主力マヌス島展開した。 なお、当時アドミラルティ諸島原住民人口は約13,000人だった。

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