日本軍の防備
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一方、日本軍は太平洋戦争開戦直後にマキンを無血占領して以来、守備隊は約70名しか置いていなかった。 この守備態勢を見直すきっかけとなったのは、1942年8月17日に、221名のアメリカ海兵隊が2隻の潜水艦でマキンに上陸したマキン奇襲事件だった。当時のマキンには海軍陸戦隊64名など73名(ほかに民間人2名)の日本軍がいたが、戦闘で壊滅した。日本軍の救援部隊が到着する前にアメリカ軍は引き揚げてしまった。 この失態は日本軍にギルバート諸島の戦略的な重要性を気づかせることとなり、1942年12月以降、日本軍は島の防備強化を開始した。しかし、戦況が悪化し各戦域に兵力を派遣する必要に迫られていた日本陸軍は、中部太平洋方面への兵力配置には消極的で、ギルバート諸島の防衛は海軍の海軍陸戦隊が担うこととなった。その後も、中部太平洋方面の防衛態勢を協議していた陸海軍であったが、ガダルカナルの戦いでの痛い経験から海軍占領地域に陸軍部隊の派遣を躊躇し続けていた陸軍も、1943年3月に開催された陸海軍作戦課における作戦会議によって、ギルバート諸島に陸軍部隊を「1年以内」と時限付きで派遣することを決定した。 1943年4月12日、大本営は南海第1守備隊のギルバート諸島派遣を発令した。南海第1守備隊は歩兵第34連隊、歩兵第6連隊、歩兵第68連隊、歩兵第18連隊から各1個中隊の兵力を抽出して静岡県で編成され、5月1日に特設巡洋艦「盤谷丸」でタラワに向けて出発した。南海第一守備隊の戦力は指揮官の藤野孫平陸軍中佐を含めて801人(本部、歩兵4個中隊〔1コ中隊は、小銃3コ小隊と第4小隊〈機関銃1、速射砲1、大隊砲1〉〕、砲兵1個中隊、診療班)であった。しかし、5月23日にヤルート付近で、アメリカ軍潜水艦「ポラック」の雷撃を受けて「盤谷丸」は沈没、南海第1守備隊は指揮官の藤野以下500人が戦死し、生存した301人はヤルートに上陸して同島の守備につくこととなり、ギルバート諸島への派遣は見送られた。 5月末にはアッツ島の戦いで守備隊が玉砕、日本軍にとって離島防衛が喫緊の課題となった。ギルバート諸島にも9月から10月までにはアメリカ軍の侵攻を予想していたが、先の南海第1守備隊の遭難もあって陸軍はギルバート諸島への部隊派遣には消極的であり、参謀総長の杉山元大将は「アンダマン諸島とニコバル諸島は陸軍作戦に関係があるから陸軍部隊を出してもよいが、ギルバートは海軍で担当してもらえ」と述べている。その後に陸海軍作戦課と連合艦隊参謀も入れた、離島防衛方針の協議が続けられたが。アッツ島の玉砕の際には連合艦隊の支援が得られなかったことに対する陸軍の不信感などもあって、陸軍の姿勢は硬化していた。それでも最終的には中部太平洋諸島への陸軍部隊増強が決定したが、ギルバート諸島の防衛は海軍の担当と決められた。 陸海軍の協議中にも、ギルバート諸島は海軍による戦力強化が進んでおり、1943年2月15日には第3特別根拠地隊(横須賀第6特別陸戦隊改編)が設置されて、地上施設や航空施設の増強が行われた。日本軍の主力は飛行場が構築されたタラワに配置されたが、マキンにも幅30m、長さ75mの飛行艇及び水上機の滑走台が整備されて、それを守る市河中尉が指揮する横須賀第6特別陸戦隊の分遣隊243人が配置された。 日本軍はマキンに侵攻してくる敵の戦力をせいぜい1個大隊程度と想定しており、重火器としては、8cm砲3門、四十口径三年式八糎高角砲3門、ホ式十三粍高射機関砲12丁しか配備されていなかった。それでも市河に鍛えられていた兵士の士気は高く、3倍程度の敵が攻めてきても撃退できると意気軒高であった。しかし、実際に侵攻してきたのは、戦闘部隊では23倍もの大軍であった。
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日本軍の防備
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「アドミラルティ諸島の戦い」の記事における「日本軍の防備」の解説
一方、日本軍はアドミラルティ諸島に第51師団の輜重兵第51連隊主力、海軍第88警備隊、第101設営隊など弱体な守備隊を配置していた。マヌス島のロレンガウ(英語版)(ロレンゴウ)と、ロスネグロス島のハイン湾付近モモテ(現在のモモテ空港(英語版))にそれぞれ飛行場を作って、ラバウルとトラック島やニューギニアを結ぶ中継基地などとして利用していた。 日本側は、1943年末になると連合国軍のアドミラルティ諸島への侵攻を警戒しはじめ、パラオで再建中の歩兵第66連隊を守備隊として送ることにした。ところが、歩兵第66連隊は補充要員や再編成された部隊が海上輸送中に次々に撃沈され、届かなかった。大本営はすでにアドミラルティ諸島などの南東方面に見切りをつけつつあったため、これ以上の増援部隊を送ることには慎重だった。他方で現地の第8方面軍司令部は、アドミラルティ諸島よりもラバウルの攻略戦が先に起きると予想しており、アドミラルティ諸島の防備に兵力を割きたくなかった。それでも、索敵が難しい月暗期となる1944年(昭和19年)1月末に敵襲の危険があるのを放置できず、ニューアイルランド島所在の独立混成第1連隊の第2大隊(763名)と、ラバウル所在の第38師団の歩兵第229連隊第1大隊主力(343名)が2月初旬までに増派された。すでに日本側に制空権が無いことから、これらの増援部隊は駆逐艦での鼠輸送や潜水艦による輸送をしなければならない状況だった。輸送援護のために飛行第63戦隊の一式戦闘機12機がハイン飛行場に降りたが、直後に空襲で壊滅してしまった。ラバウル方面からの駆逐艦の全面撤収決定に伴い、1944年2月10日に予定された鼠輸送最終便(兵員470人・物資45トン)は中止となった。2月17日に潜水艦「伊6」が大隊砲2門を運んだのが最後の補給となった。 最終的に日本軍の守備兵力は約3,800人となった。重火器は数門の歩兵砲と海軍第36防空隊の対空砲程度しかなかった。弾薬や食糧などの物資も不足していた。これら日本軍部隊の指揮は、輜重兵第51連隊長の江崎義雄大佐が執った。陸軍主力はロスネグロス島、海軍主力はマヌス島に展開した。 なお、当時のアドミラルティ諸島の原住民の人口は約13,000人だった。
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