日本軍三空母の炎上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:10 UTC 版)
「ミッドウェー海戦」の記事における「日本軍三空母の炎上」の解説
その頃、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズの艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する。午前6時55分(09:55)、アメリカの潜水艦ノーチラスを攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦嵐を発見した。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する。嵐は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた。ただし嵐の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、嵐は赤城の直衛で傍を離れていなかったと主張している。エンタープライズの艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を発見した。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズの艦爆隊は30機となった。 日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戦場に到着する。こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズの艦爆隊とヨークタウンの艦爆隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に対応して直掩零戦のほとんどが低空に降りており、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機に気をとられていたため発見が遅れ、「敵、急降下!」と加賀の見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった。 先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズの艦爆隊で、加賀を狙った。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった。午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラハー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中、続き3発が短時間の内に命中した。なお加賀を攻撃したのはレスリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張するアメリカ研究者もいる。 午前7時25分(10:24)、レスリー少佐のヨークタウンの艦爆隊17機がエンタープライズの艦爆隊に続く形で蒼龍へ攻撃を開始した。蒼龍は艦爆12-13機と記録。発艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ機銃掃射をもって突入した。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は蒼龍の前部エレベーター前に命中し大爆発を起こし、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た。ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦磯風の後部に至近弾となった。 同時刻、エンタープライズの艦爆隊のうちベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、ベスト大尉とクルーガー中尉とウェバー中尉、3機のみで旗艦赤城を狙った。赤城では直衛の零戦が着艦し、補給を行い、ふたたび発艦する瞬間だった。午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戦1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が赤城より発艦した時点で急降下がはじまった。木村一飛曹によると、加賀・蒼龍炎上直後、赤城上空の敵機が急降下に入っていない段階で、攻撃隊の発動機が起動しており、先頭のAⅠ-101号(戦闘機隊長機)に整備兵が乗っていた。直後に1番機が急降下を開始し、同時に赤城が風に立ち始めたため指揮所に合図して隊長機に飛び乗り発艦し、高度50メートル付近で赤城を見ると、発艦前にいた位置に爆弾が落ち、2番機と思われる零戦が逆立ちになって炎上していたという。最初クルーガー中尉機の1弾は左舷艦首約10mに外れたが、続いてウェバー中尉機は至近弾1発そしてベスト大尉機は1発の爆弾が命中し、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した。命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1発だけという艦橋勤務信号兵や従軍カメラマンの証言もある。発艦寸前だった零戦1機が爆風で赤城艦橋付近で逆立ちとなり、飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った。エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った。 詳細は「加賀 (空母)」を参照 約6分間の出来事であったが、太平洋戦争のターニングポイントとなった。加賀では艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発により艦橋が破壊され、中の岡田次作艦長以下指揮官らが戦死、午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦萩風、舞風に移乗する。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆発が2回起きた。加賀は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含め800名弱で、航空機搭乗員では楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した。 詳細は「蒼龍 (空母)」を参照 3発の爆弾が命中した蒼龍の被害は最も深刻だった。被弾からわずか20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が発令されている。午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、楠本幾登飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。直後、再度の爆発、楠本飛行長は救出不可能と判断した。午後4時13分(19:13)に沈没。あえて艦内に残った柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した。搭乗員戦死は機上・艦上合わせ10名で江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。 詳細は「赤城 (空母)」を参照 赤城が被弾した爆弾は1-2発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能であったが、被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料へ次々と誘爆を起こし、大火災が発生した。さらに、被弾直後に雷撃機4機を発見し、回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなり洋上に停止した。赤城の南雲司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦野分に移乗したあと軽巡洋艦長良に移った。直接長良に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗組員の証言もある。午前8時30分(11:30)、南雲は長良に将旗を掲げた。青木泰二郎艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した。赤城の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本長官は赤城の処分を中止させた。南雲は、木村進少将(第十戦隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている。結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した。上記2隻と比べて赤城では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらより少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせ7名である。淵田美津雄中佐、板谷茂少佐、村田重治少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。
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