日本軍人をソ連へ労働力として提供
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「瀬島龍三」の記事における「日本軍人をソ連へ労働力として提供」の解説
ヨシフ・スターリンは8月16日のべリア文書で「日本・満州軍の軍事捕虜をソ連邦領土に運ぶことはしない」と命令していた。しかし、「ソ連軍に対する瀬島参謀起案陳情書」には、日本の兵士が帰還するまでは「極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いたいと思います」との申し出が記述されており方針が変更された。ソ連との停戦交渉時、瀬島も同行し日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約が結ばれた。なお、この公式文章が2007年に斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)によって発見されるまで、瀬島はソ連のスパイとして以下のような言動で事実を隠蔽し続けてきた。 瀬島は1996年の著書『幾山河』で「『密約説』を唱える人たちは、明確な根拠を示して欲しい」と述べている。また、瀬島は、停戦協定の際の極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーと関東軍総参謀長秦彦三郎にはこのような密約を結ぶ権限がなかったと反論している。またロシア側資料からそのような密約を証明できる証拠はペレストロイカの情報開示後も全く発見されてはいない。 2002年、政治学者である田久保忠衛が、モスクワのロシア国立社会政治史文書館で「国家防衛委員会決議No.9898CC「日本人捕虜五十万人の受入、収容、労働利用に関する決議」(1945年8月23日付)を確認した。このスターリンが自ら署名した文書には、「労働のためにやって来る捕虜の受入、収容、労働利用の実施を行うよう次の人民委員に命ずる」と強制労働命令について明記されており、この文書によって極東ソ連軍の権限でなく、ソ連中央政府からの命令であったことが判明しており、密約説は否定された。この命令の背景にはスターリンの北海道北半分の占領要求をアメリカが拒否していたことあったとみられている。 野地二見によれば、密約説とは、「瀬島ら関東軍参謀が天皇を助ける為のバーターとして一般市民を売ったと強制労働収容所の被害者に思い込ませ洗脳させるソ連の工作であった」と述べている が、その根拠、証拠は示されていない。また、瀬島が著書『幾山河』の草稿を秦に依頼した際に、秦が瀬島に関する仮説に対する反論を注文したところ、瀬島は、「自身のための弁明はいさぎよしとしない」と抵抗したが、説き伏せ、シベリア抑留11年間の9つの収容所に滞在した期間の「抑留十一年の年譜」を作った。秦はこの年譜をたどれば、スパイ訓練所は存在しないと証明でき、瀬島回想録の刊行後は「悪意ある流言」は消えうせたと述べた。
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