日本軍占領下のフィリピンでの活動
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「ベニグノ・ラモス」の記事における「日本軍占領下のフィリピンでの活動」の解説
ラモスは、1938年8月28日にドイツ客船グナイゼナウ号でマニラに戻った。 彼は新たにガナップ党(Ganap / タガログ語で「完全」の意でフィリピン独立を示唆する)を設立し、武装闘争から一変して選挙を通した合法的な政権獲得に乗り出す。時にはラモス自身が拘束されるなど当局から弾圧を受け、またサクダル運動時代からの古参党員からはケソン政権と妥協したと批判されながらも、ルソン島中部から南部にかけて勢力を築きつつあった。 1941年末に太平洋戦争が始まると、日本軍はフィリピンに侵攻、ガナップ党は反米政党として当初は日本軍から優遇され、占領地統治の分野で協力関係を持った。しかし、同党員たちが日本軍の名を借りた圧政・横暴を働いたことが判明し、1942年末には日本軍から絶縁され、新たに設立した親日政治組織カリバピ(日本側名称:親比島奉仕団)に吸収されてしまった。ラモスはなお周囲の親日派フィリピン人に呼びかけ、日本軍と軍事的な協力関係を築くべくフィリピン・ガードと呼ばれる武装青年団を設立した。この組織は日本側からは警備隊とも呼ばれ、アメリカ軍がフィリピンに反攻上陸後の1944年12月に彼と同じ独立派の英雄アルテミオ・リカルテ将軍らが率いる他のフィリピン・ガードとも統合されマカピリ(日本側名称:比島愛国同志会)に再編、米軍との戦いに参加しその多くが斃れた。 フィリピン全土を覆った激烈な戦闘と混乱により、ラモスの最期はよくわかっていない。一説にはバギオまで行き着きそこから空路脱出を試みたが墜落死したとされている。 ラモスの政治的な行動主義と同様に、彼は詩集"Mga Agam-agam at Iba Pang Tula"の発行により詩人としても有名である。
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