日本軍占領下のフィリピンでの活動とは? わかりやすく解説

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日本軍占領下のフィリピンでの活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:10 UTC 版)

ベニグノ・ラモス」の記事における「日本軍占領下のフィリピンでの活動」の解説

ラモスは、1938年8月28日ドイツ客船グナイゼナウ号でマニラ戻った。 彼は新たにガナップ党(Ganap / タガログ語で「完全」の意でフィリピン独立示唆する)を設立し武装闘争から一変して選挙通した合法的な政権獲得乗り出す時にはラモス自身拘束されるなど当局から弾圧を受け、またサクダル運動時代からの古参党員からはケソン政権妥協した批判されながらも、ルソン島中部から南部にかけて勢力築きつつあった。 1941年末に太平洋戦争が始まると、日本軍フィリピン侵攻、ガナップ党は反米政党として当初日本軍から優遇され占領地統治分野協力関係持った。しかし、同党員たちが日本軍名を借りた圧政横暴働いたことが判明し1942年末には日本軍から絶縁され新たに設立した親日政治組織カリバピ日本側名称:親比島奉仕団)に吸収されてしまった。ラモスはなお周囲親日派フィリピン人呼びかけ日本軍軍事的な協力関係を築くべくフィリピン・ガードと呼ばれる武装青年団設立した。この組織日本側から警備隊とも呼ばれアメリカ軍フィリピン反攻上陸後1944年12月に彼と同じ独立派英雄アルテミオ・リカルテ将軍らが率いる他のフィリピン・ガードとも統合されマカピリ日本側名称:比島愛国同志会)に再編米軍との戦い参加しその多くが斃れた。 フィリピン全土覆った激烈な戦闘混乱により、ラモス最期はよくわかっていない。一説にはバギオまで行き着きそこから空路脱出試みた墜落死したとされている。 ラモス政治的な行動主義同様に、彼は詩集"Mga Agam-agam at Iba Pang Tula"の発行により詩人としても有名である。

※この「日本軍占領下のフィリピンでの活動」の解説は、「ベニグノ・ラモス」の解説の一部です。
「日本軍占領下のフィリピンでの活動」を含む「ベニグノ・ラモス」の記事については、「ベニグノ・ラモス」の概要を参照ください。

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