日本軍制空権の喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:53 UTC 版)
「レイテ島の戦い」の記事における「日本軍制空権の喪失」の解説
その後も多号作戦による増援の海上輸送は続けられたが、第4航空軍は富永の方針で地上軍との連携は重視しつつも、飛行場への爆撃や、万朶隊を皮切りとして特攻を主軸とした艦船への攻撃任務を積極的に行っており、挙げた戦果も多大ながら、受けた損害も大きく、船団護衛と攻撃任務の両立が困難になってきた。 富永は毎日の航空機の損失と、日本内地からの補充を自ら確認して、南方軍総参謀長飯村穣中将に報告していたが、補充される機数は多い日で十数機程度と少数で、補充がない日もあった。富永はせめて毎日30機の補充があれば、船団護衛と攻撃任務を両立できるうえ、連合軍をレイテから叩きだせると考えて、飯村に補充機の増加を要請した。飯村は陸軍中央に「ともかく生産力をあげて南方に補給されたし」と電報を打つとともに、南方軍後方参謀村田謹吾中佐を日本内地に帰らせて、参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐に飛行機の補充増を要請させたが、服部から却下されている。それでも村田はあきらめずに上京すると、航空畑出身の人脈などを活かして、多少の補充機の上積みに成功したが、その程度の数では消耗には追い付けず、11月中旬以降は第4航空軍は船団護衛に注力するかわりに、飛行場攻撃に兵力を殆ど回せなくなった。 一方で、執拗な第4航空軍の飛行場攻撃が弱体化したことと、比較的地盤が堅固であったタナウアンで飛行場を整備できたこともあり、順調に戦力が増強されるアメリカ陸軍第5空軍や、アメリカ海軍機動部隊の艦載機によって、多号作戦の輸送船団への攻撃は激化しており、11月11日には輸送船泰山丸・三笠丸・西豊丸・天昭丸で編成された第3次船団は艦載機の空襲で全滅している。第3次船団にも20機の第4航空軍の護衛戦闘機がついていたが、合計120機以上のアメリカ軍機の波状攻撃に8機が撃墜されてしまい、もはや大量の連合軍航空機に対し、第4航空軍による護衛任務は困難となっていた。それでも9回にもわたった海上輸送作戦で、日本軍は45,000名の兵員と物資10,000トンを揚陸することに成功して、レイテ島に上陸したアメリカ軍は想定していた以上の兵力の日本軍と戦うことになり、苦戦を強いられた挙句に、ルソン島への上陸計画を延期して予備兵力をレイテに投入せざるを得なくなっている。アメリカ第6軍は、第4航空軍による飛行場攻撃と、飛行場整備の失敗によって、航空支援が十分受けられなかったために、慎重な作戦をとりざるを得ず、レイテ島の攻略に手間取ることとなった。 制空権を喪失した日本軍であったが、作戦機によりレイテ島オルモック付近に展開する地上部隊に対する補給物資の空輸を行っている。地上軍との連携を重視していた富永は、この任務に歴戦の精鋭であった第2飛行師団飛行第75戦隊をあて、戦隊長の土井勤少佐に対しては、富永は自ら詳細な作戦図を示して物資の投下点などの指示を行い、戦隊の搭乗員への贈り物として清酒1ダースを贈っている。空中から地上部隊に補給した物資は、乾パンや乾燥野菜といった食料、医療品、無線機材などであった。この空輸作戦は軍直轄として行ったため、作戦機となった「九九式双軽爆撃機」は第2飛行師団の指揮下を離れることとなり、師団長の木下勇中将は、戦力の低下を解消するため、一時的にでも「九九式双軽爆撃機」を師団の指揮下に戻して戦闘任務につかせたいと上申し続けたが、富永は海路からの補給が困難となって苦境にある地上部隊のことを慮り、空地協同の同義を重視して、木下の上申を却下した。第75戦隊の戦隊長の土井もこの物資空輸任務の重要性を理解しており、木下の意を受けた第3飛行団長長浜秀明大佐が土井に師団復帰を打診したが、土井は拒否している。 そのような中で、1944年11月24日から第4航空軍残存兵力をもって第二次総攻撃を行うこととなったので、富永は、23日の夜になって木下の上申を認め「第75戦隊は延10機分の物資投下後、第2飛行師団の指揮下に入るべき」とする命令を出し、この日の空輸任務を完了させたのちに第75戦隊の「九九式双軽爆撃機」の師団復帰を認めた。しかし、木下は、空輸任務をおこなうことなく「九九式双軽爆撃機」をタクロバン飛行場攻撃に投入することとし、「直接、戦隊長宛の軍命令が到着しない限り、この作戦には参加いたしません」と命令を遵守する土井に対して、第4航空軍から発されたとする「飛行第75戦隊は、一時的に第2飛行師団長の指揮下に入るべし」という電報を示して出撃を命じた。土井はこの電報が正当なものではないと薄々感じながらも、命令通り4機を出撃させたが、ついに1機が未帰還となった。 このことを、現地のバコロド基地に進出していた参謀長の寺田から聞いた富永は激怒し、命令違反を犯したとして即座に木下の師団長としての職務を停止し、参謀長の寺田にそのまま師団の指揮をとるよう命じた。本来、天皇による親補職である師団長は、軍司令官といえども職務の停止や解任を行うことができないものであり、冨永から木下師団長罷免の処置について事後承認を求められた南方軍は、師団長の職権を軍司令官限りの意向で停止できぬとして、その命令を修正させた。軍隊指揮の常態からは冨永の言い分が道理としても、第四航空軍司令部内の意思疎通にも機微な問題があり、南方軍は、木下を軍法会議にまでかけようとする冨永の意向は不適当であるとした。しかし、一度このようなことになった以上、木下をそのままにしておくことはできなくなり、その補職換えを中央に具申した。寺田の後任の参謀長には隈部正美少将が補任された。この人事によって第4航空軍幕僚に混乱が生じた。
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