日本軍占領下の歴史
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1941年12月8日、日本軍は蘇州河を越えて共同租界に進駐した。これ以降の上海の日本軍の占領期にあっても、上海の人口の大半を占める中国人人民の目を、戦争という現実からそらすため、日本軍は「文化工作」に着手していた。工部局交響楽隊も「文化工作」の一環として、市民の税金で運営される上海の数少ない公的文化財団の一つとしての活動を続けた。しかし、多額の運営費がかかるため、しばし納税者会議でも存続が議論されており、一部の日本人は交響楽隊が少数の欧米人ためだけに活動していると考え、多額の税金の支出は不適当と主張した。ところが、いよいよ交響楽隊の解散が現実となったとき、「欧米人が運営していたオーケストラを、日本人がつぶせば日本人の面目が立たない」という議論が出現する。その結果、1942年6月から日本側によって「上海音楽協会交響楽団」と改称されて演奏活動を続けることになった。ひとたび「お別れコンサート」まで開いた楽団が、ほとんど改組されることなく活動を続けられたのは、団員の多くが「中立国人」である白系ロシア人とユダヤ人だったことも理由の一つである。この時代、工部局に運営されていたときと同じく、週1回のペースで定期演奏会を行っている。夏は、虹口公園やフランス租界の顧家宅(クサカ)花園(現;復興公園)で野外コンサートを行った。秋から春にかけてはフランス租界のライシャムシアターで演奏した。英米人がいなくなった街では、新たな聴衆を開拓する必要があるため、それまで英語のみだったプログラムも、日本語と中国語でも印刷されるようになった。しかし、一般の日本人は、抗日テロに巻き込まれることをおそれ租界中心部には出てこなかったため、聴衆のほとんどは中国人とロシア人になった。
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