日本軍の進駐および米軍の反攻と駐留とは? わかりやすく解説

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日本軍の進駐および米軍の反攻と駐留

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 03:44 UTC 版)

日本とソロモン諸島の関係」の記事における「日本軍の進駐および米軍の反攻と駐留」の解説

1942年5月3日日本軍当時ソロモン諸島首都ツラギ島上陸して占領したが、これが初めての本格的な日本ソロモン諸島接触となった同年7月6日日本軍ガダルカナル島上陸開始ガダルカナル島の戦い)。統治者であるイギリス抵抗援軍はほぼ皆無等しく拱手傍観様相呈していたが、イギリスとは対照的にイギリス同盟国アメリカの対応迅速で、早くも1ヶ月後の8月7日には反攻があり、米第1海兵師団によって日本軍滑走路建設したばかりのルンガ飛行場奪取される。それから半年近くわたって日本軍はルンガ飛行場取り戻すために何度も兵力送り込んだが、いずれも奏功せず返り討ち遭う結果終わった8月24日第二次ソロモン海戦日本軍空母龍驤沈没させられるなどの敗北喫してからは、制海権兵站維持がままならなくなり食料医薬品弾薬などの物資全般不足し始めた11月中旬戦われ第三次ソロモン海戦日本軍戦艦比叡霧島沈められ制海権失ってからは、いよいよ外部からの補給がほぼ完全に途絶えて餓死者が続出するようになり、「餓島」というあだ名呼ばれるようになった1943年2月日本軍ガダルカナル島から撤退投入兵力の約3万人のうち戦病死者(餓死者も病死者に含む)を約2万人も出すという無惨大敗終わった同年10月ソロモン諸島ベララベラ島からも日本軍撤退、これによりソロモン諸島全土から日本軍駆逐されたことになる。その後ソロモン諸島には米軍駐留続けたが、日本軍一度ソロモン諸島奪回できずに敗戦迎えた1950年5月25日戦時中からずっとソロモン諸島駐留していた米軍撤退

※この「日本軍の進駐および米軍の反攻と駐留」の解説は、「日本とソロモン諸島の関係」の解説の一部です。
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