鹿屋海軍航空隊
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鹿屋海軍航空隊(かのやかいぐんこうくうたい)、および第七五一海軍航空隊は、日本海軍の航空部隊の一つ。戦闘機・陸上攻撃機部隊として、日中戦争・太平洋戦争で攻撃任務に従事した。1942年(昭和17年)10月1日に戦闘機部隊を分離し、第七五一海軍航空隊に改称された。戦力消耗につき1944年(昭和19年)7月10日に解隊された。
- ^ 『官報』第2773号、昭和11年4月2日。
- ^ 『海軍辞令公報 号外 第91号 昭和12年11月15日付』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500
- ^ 『海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- 1 鹿屋海軍航空隊とは
- 2 鹿屋海軍航空隊の概要
- 3 建物
鹿屋海軍航空隊 (初代)
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「鹿屋海軍航空隊」の記事における「鹿屋海軍航空隊 (初代)」の解説
1936年(昭和11年)4月1日、鹿児島県鹿屋基地において開隊。1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が発生し日中戦争が始まる。7月11日木更津海軍航空隊とともに第一連合航空隊を編成、8月12日には台湾に前進し華中方面を爆撃(渡洋爆撃)。12月4日には、海南島三亜及びサイゴンに進出して、華南方面への爆撃に従事した。さらに戦火の拡大にともない、上海、漢口に進出、以降1941年(昭和16年)まで中国各地に対する爆撃が続けられた。 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。開戦当初は連合艦隊第十一航空艦隊第二一航空戦隊所属で、主に搭乗員の練成に当たっていた。開戦直前に陸攻隊の半数(3個分隊)が仏印に派遣され、二二航戦の指揮下に入った。この派遣隊はマレー沖海戦に参加した。 1942年(昭和17年)9月、カビエン・ラバウルに進出、以後ソロモン・東部ニューギニア戦線での活動に当たった。
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鹿屋海軍航空隊 (二代)
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1942年(昭和17年)10月1日、艦上攻撃機・艦上爆撃機要員の飛行練成部隊として、鹿屋基地に二代目鹿屋海軍航空隊が開隊した。1944年(昭和19年)2月からは陸上攻撃機要員の練成に変更された。戦況の悪化にともない空襲の危険が高まった事、及び鹿屋基地を実戦部隊に明け渡すため、機能を豊橋海軍航空隊に移し、7月10日解隊した。
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