飛行機代議士として
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村議会議員時代の1917年、鹿児島市の天保山にて鹿児島新聞(南日本新聞の前身)により開催された飛行会を観覧する。このときに「これからの戦争は飛行機が勝敗を決める」と直感したことが、後に飛行機代議士(ヒコーキ代議士)と呼ばれるきっかけとなった。 1922年8月に鹿屋町の笠野原に民営飛行場が完成。しかし、最初に飛行機が飛来したのはそれから3年後の1925年2月17日であった。衆議院議員となった後も航空隊の誘致運動を継続し、1936年4月の鹿屋海軍航空隊開隊に至った。 1931年には航空問題について当時の濱口雄幸首相と討論している。このときに永田は「これからの戦争は飛行機が中心、今のうちに航空力を整備して制空権を獲得しておくべき」と主張したが、当時の首脳陣・軍部からは全く相手にされなかった。1930年代当時の日本において、同様の主張は極めて少数派(他には山本五十六がいる)であり、アメリカの圧倒的な航空力に屈した戦後になって、ようやく受け入れられることとなる。
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