鹿屋市長として
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1943年11月に衆議院議員と兼任するかたちで鹿屋市長に就任。1945年の終戦後、最初のアメリカ軍進駐地として厚木と鹿屋が選定され、鹿屋側の代表としてアメリカ軍と折衝にあたった。 1945年9月3日、鹿屋航空基地にて占領地域の範囲について交渉する。この際に永田が「神風特攻隊崩れが高隈山に二千人やら三千人はいる」と脅しをかけ、その後の交渉を優位に持ち込んでいる。その翌日(9月4日)に金浜海岸(鹿屋市野里、現在は同高須町)から進駐軍が上陸した。国内各地の進駐地では進駐軍による凶悪事件が相次いだが、鹿屋では窃盗程度で済んだとされている。公職追放により1946年10月15日に市長を辞職。 1955年の衆議院選挙落選後、永田は浪人状態であったが、翌1956年10月の鹿屋市長選に出馬、1万4,710票を集め当選した。 1期目には、科学航空博覧会(1958年3月20日-4月30日までの42日間)を鹿屋航空基地内で開催。記念行事として鹿屋市今坂町に特攻隊の慰霊碑を建立した。博覧会では300万円の赤字を計上している。また、衆議院議員時代からの「高隈ダム」建設、笠野原台地の畑地灌漑(畑かん)運動も進めていった。同運動では集落を二分する騒動となったが、1962年に一応の決着がつき、1982年に工事が完了した。 ベテランの域に達していた永田ではあったが、2期目ではいわゆる「老害」ぶりが顕著となる。すなわち、永田の答弁によって議論が有耶無耶となり、日本社会党からは不信任案が提出されるほどであった。こうしたことから1964年の選挙への出馬は周囲が断念させ、78歳をもって政界から引退した。引退直後に鹿屋市初の名誉市民に選出され、1967年には市役所前に胸像が建立された。
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