アメリカ海軍時代
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「ウェーク (砲艦)」の記事における「アメリカ海軍時代」の解説
グアムは1927年5月28日に上海の江南造船所(英語版)で進水し、同年12月28日に就役した。1928年には、ハルナンバーが PG-43 から PR-3に変更された。グアムや後に就役したパナイ (USS Panay, PR-5) など、アメリカ海軍の河用砲艦の第一の任務は自国民の宣教師およびその他外国人の保護であり、次いで日本の動向を探る「スパイ船」「浮かぶ無電所」としての役割であった。就役後一貫して所謂「揚子江パトロール」の任務に就いていたグアムだったが、1937年に日中戦争が勃発すると日本の脅威をまともに受けることとなった。1939年までには、グアムがどのような行動をとっても、日本の艦艇による「護衛」がつけられることとなった。 1941年1月、グアムは新造の大型巡洋艦にその名を譲って、ウェークと改名された。11月25日、ウェークは漢口の海軍基地の閉鎖を命じられ、上海へ向かった。この頃、上海には支那方面艦隊(古賀峯一中将)の旗艦である巡洋艦出雲が、上海に残っていたウェークおよびイギリス砲艦ペテレル (HMS Peterel) と相対するような形で停泊しており、古賀中将はさらに駆逐艦蓮と砲艦鳥羽を呼び寄せ、外灘内の公園に海軍陸戦隊の15センチ砲を据えてウェークとペテレルを包囲する形とした。10月28日には、長江を航行する船の船長などを務めていた経験のあるコロンブス・ダーウィン・スミス(Columbus Darwin Smith)が少佐として艦長に任命された。この時期、定員55人であったウェークの乗員は14人に減らされていた。 1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日本はアメリカとの間に開戦した。その前日、スミス艦長のもとに日本の士官から「艦長と乗員のために七面鳥を渡したい」との申し出があった。この申し出には、「翌朝、艦長はどこにいるか」という問いかけもついていた。古賀中将はウェークとペテレルを無傷で拿捕する腹積もりで、事前にあらゆる工作を以って二砲艦を上海に釘付けにしていたのである。8日未明、スミス艦長は真珠湾攻撃に関する情報を補給士官から受け取ってウェークに急行した。その前後に、出雲からウェークとペテレルに降伏勧告のための軍使(「ウェーク」へは支那方面艦隊参謀松本作次少佐)が派遣され、出雲、蓮、鳥羽の三艦はウェークとペテレルが歯向かえば即座に撃沈できるよう、あらかじめ砲の照準をウェークとペテレルに定めていた。スミス艦長は圧倒的な日本軍に取り囲まれては多勢に無勢と感じ、乗員による自沈の試みも成功しなかったため、ついにウェークは白旗を掲げて降伏。朝日新聞は「(降伏)勧告文を見ただけでスミス艦長はあへなく降伏した」と伝えた。ウェークは第二次世界大戦で唯一降伏したアメリカ海軍の艦船となった。他方、ペテレルは艦長が降伏を拒絶したため、出雲、蓮、鳥羽などの砲撃で呆気なく撃沈された。ウェークは1942年3月25日に除籍された。スミスは捕虜収容所に収容されたが、後にほか2名とともに脱出した。 2011年現在、砲艦のウェーク以降に就役したアメリカ海軍の艦艇に、カサブランカ級航空母艦の一艦であるウェーク・アイランド (USS Wake Island, CVE-65) を別にすると「ウェーク」と命名された艦艇は存在しない。
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アメリカ海軍時代
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「リチャード・ニクソン」の記事における「アメリカ海軍時代」の解説
1941年12月にアメリカも参戦した第二次世界大戦の太平洋戦線では、アメリカ軍は真珠湾攻撃で太平洋艦隊が手痛い損失を受けた上に、ニクソンの地元のカリフォルニア州南部に日本海軍の艦艇による砲撃を受けたほか、日本軍機による爆撃を受けるなど各地で日本軍に対し劣勢に立たされていた。 そのような状況下で、1942年6月にニクソンは士官募集に応募して海軍に入隊した。海軍への入隊後には海軍士官としての通常の訓練を受けたものの、修士号のみならず弁護士資格を持つことや、物価統制局での勤務経験があることから一般の戦闘要員とはならず補給士官に任命された。 入隊後はしばらくアメリカ国内のアイオワ州の基地で勤務した後に、1943年5月より日本軍と死闘が繰り広げられていた南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島に配属された。やがて戦線の移動とともにフランス領ニューカレドニアなどへ転属され、主に戦線へ軍需物資を補給する補給士官として前線にほど近い戦場で兵站業務に就いたが、昼夜を問わない日本軍の爆撃に悩まされ、多くの戦友を亡くした。 1944年7月にはブーゲンビル島の前線より国内に帰還してカリフォルニア州アラメダの海軍航空基地に勤務し、その後1945年1月にはアメリカ東部のフィラデルフィアの基地への移転を命じられ、そこで5月のドイツ降伏、8月の日本降伏で終戦を迎えた。この海軍勤務時代に後にニクソン政権の国務長官となるウィリアム・P・ロジャーズと知り合っている。 海軍ではブーゲンビル島の前線で屋台を出して人気となり、また海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。
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