アメリカ海軍勝利の要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 00:40 UTC 版)
「エリー湖の湖上戦」の記事における「アメリカ海軍勝利の要因」の解説
ほとんどの歴史家は、セオドア・ルーズベルトが言及しているように「優れた重金属」をアメリカ海軍勝利の要因としている。ペリー船隊の大砲はチェサピーク湾の鋳造所で製造されたものであり、大変な困難さの中でプレスク・アイルまで運ばれたが、他の材料や艤装は当時製造業の中心として発展しつつあったピッツバーグから得ることができた。対照的に、バークレイ船隊の大砲や物資はセントローレンス川を遡りオンタリオ湖とエリー湖を通って運ばれねばならなかった。1813年早くにアメリカ軍がオンタリオ湖を支配しナイアガラ半島を占領していたので、バークレイへの物資はトロントから陸路を経て運ぶ必要があった。ヨークの戦いでのアメリカ軍の勝利は、「デトロイト」のための大砲がアメリカ軍の手に落ちたことを意味していた。デトロイトはアマーストバーグの防御に使われているものの中から寄せ集めの物資で完成するしかなかった。その大砲にはフリントロック式着火機構もマッチも無かった。通気口に詰められた火薬に拳銃で撃って着火していたと言われる(それでも戦闘中には用を足した)。 2つの船隊の創出には重要な役割を果たした多くの人物がいた。1812年遅くにジェス・エリオットが行った「切り込み」はデトロイトの破壊とカレドニアの捕獲に繋がった。ダニアル・ドビンスは湖での水夫の経験が長く、艦船建造の起ち上げに関わって、エリー湖を建造場所に選ばせた。またエリー湖への物資の移動も監督した。ノア・ブラウンはエリー湖での建艦の中心となり、2隻の大きなブリッグ船を設計した(当時のブリッグ船USSホーネットに類似していた)。 イギリス側では、ウィリアム・ベルがエリー湖では最強となったデトロイトの建造に関わった。しかし、ベルの完全主義もあってデトロイトの建造には時間が掛かった。実際に戦争中にエリー湖で作られた唯一の艦船となった。この期間にアメリカ軍は6隻の艦船を完工させており、この不釣り合いがもう一つの重要な要因となった(バークレイがより多くの艦船を得たとしても、それに見合う武器も水夫も得られなかったという議論もある)。 両軍の乗組員は、職業的水夫に湖の船乗り、ボート乗りあるいは運び屋が混在していた。ハリソン隊の志願兵がアメリカ軍の乗組員となっており、バークレイはプロクターの連隊から兵士を幾らか借りた。 湖上戦そのものは接近戦であった。風の利点を生かせなかったのでペリーの優勢な船隊は接近戦に持込み、その結果、ペリーの旗艦は複数の敵と戦うことになった。引き分けの可能性もあったが、イギリス軍の完勝はあり得なかった。戦闘の初期段階で戦いに加われなかったアメリカ船隊の一部が、後に損傷を受け乗組員が疲れ切ったイギリス船に打ち勝つことができた。
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