海軍士官として
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祖父・父にならい、1954年にアメリカ海軍兵学校に入学する。 彼は反体制的な士官候補生で、目立たない存在であった。また、教授や指導部と喧嘩することもあり、毎年100以上の罰点を受けた。彼は階級が上の人々が独断的に権力を行使することに納得せず、他人にそういった事が行われているのを見て間に入ることも時々あった。5フィート7インチ で127ポンド(170センチメートルで58キログラム)と小柄であったがライト級のボクサーとして3年間戦い、技術面で欠けていたものの、恐れを知らず「後退ギアを持たない」ことで知られていた。マケインのIQは133で、学業の面では英文学・歴史・政治といった、自分が興味のある科目では良い評価を得た が、他の成績は良くなかった。しかし、特に学校外の活動については同級生たちの間ではリーダー的な存在であった。難しい時ではあったが、父親や家族に対して自分も同じ気質を持っていることを証明したいという気持ちは揺るがなかったと後に書いている。1958年に無事卒業。成績は899人中894番目で、最下位から数えて6番目であった。 卒業後の1958年6月4日に海軍少尉へ任官し、2年半の間フロリダ州とテキサス州で A-1 のパイロットとしての訓練を受けた。当時のマケインはシボレー・コルベットを運転し、ストリップダンサーとデートをし、後に本人が語るところによると「概して健康と若さを誤用した」時期を過ごした。彼にはマニュアルを勉強する忍耐力がなく、平均より下のパイロットであった。また、テキサスでの訓練中に墜落したこともあったが、大きな怪我をせずに脱出することができた。1960年に訓練を終え、1960年11月に第65攻撃飛行隊(VA-65)へと配属となり、航空母艦イントレピッドやエンタープライズに搭載され、カリブ海や地中海において、航海を行った。1962年のキューバ危機の時期にはエンタープライズ上で警戒任務に当たっていた。飛行技術は次第に向上していったが、スペイン上空を低く飛行しすぎ、送電線に激突するも無傷だったという出来事もあった。その後ミシシッピに戻り、飛行教官となる。 1964年からペンシルベニア州出身のモデルであったキャロル・シェプ (Carol Shepp) と交際をはじめる。彼女はマケインのクラスメイトと結婚していたが後に離婚し、二人は1965年7月3日に結婚した。いわゆる「略奪婚」である。マケインは当時5歳と3歳の彼女の連れ子二人 を養子にした。また、1966年9月には娘が生まれた。1965年秋にはヴァージニア州ノーフォーク付近を飛行中に乗っていた飛行機がまたもや墜落し、無事に脱出するという出来事があった。 やがて自分の立場に不満を持つようになり、戦闘任務に志願した。1966年12月には第46攻撃飛行隊(VA-46)のA-4のパイロットとして、空母フォレスタルに乗り組み、太平洋や大西洋において訓練航海を行った。この間、マケインの父親は1958年に海軍少将に、1963年には海軍中将に、1967年5月には在ヨーロッパアメリカ海軍最高司令官(Commander-in-Chief, U.S. Naval Forces, Europe)にまでなっていた。
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海軍士官として
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1901年(明治34年)に海軍兵学校29期を125人中68番の成績で卒業。海軍少尉候補生、練習艦「金剛」乗り組み。1903年(明治36年)、任海軍少尉。 1905年(明治38年)、日露戦争に従軍。第三艦隊第十六水雷艇隊所属。第一艦隊第二駆逐隊所属の駆逐艦「電」乗組み。海軍中尉。日本海海戦に参戦。1906年(明治39年)、功五級金鵄勲章。大隈コマと結婚。任海軍大尉。1912年(大正元年)、任海軍少佐。海軍大学校甲種学生12期。1914年(大正3年)海軍大学校卒業。旅順要港部参謀。 1915年(大正4年)2月、ロシア帝国サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、米内は「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、[要出典]佐世保鎮守府参謀時代は『ラスプーチン秘録』というロシア語で記述されたルポを翻訳したりしている。 1916年(大正5年)、任海軍中佐。1917年(大正6年)4月、ロシア駐在を免ぜられる。1918年(大正7年)8月、ウラジオストック駐在。ロシア革命の混乱、国際情勢を分析し、論文を作成している。1919年(大正8年)9月、ウラジオストック駐在を免ぜられ、海軍大学校教官。12月、軍令部参謀。1920年(大正9年)6月よりベルリン駐在。12月、任海軍大佐。1921年(大正10年)、ポーランド駐在員監督。1922年(大正11年)、装甲巡洋艦「春日」艦長。1923年(大正12年)、練習艦「磐手」艦長。米内はニュージーランドの小学校を訪問するが、もともと口数が少ない方で挨拶をした際は、「I am very glad to see you, thank you.」としか話さなかった。 1924年(大正13年)戦艦「扶桑」「陸奥」艦長。1925年(大正14年)、任海軍少将、第二艦隊参謀長。当時の司令長官は谷口尚真であるが、谷口があまりにも謹厳であり部下にもこれを要求したため米内が「河の水魚棲むほどの清さかな」という句を贈っている。谷口は「ありがとう。」とこれを受け取ったという。1926年(大正15年)、軍令部第三班長。1927年(昭和2年)、第四水雷戦隊司令官。特別大演習に参加。1928年(昭和3年)、第一遣外艦隊司令官。
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海軍士官として
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父は漢学者。七男四女のうち、四男。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという。 1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生。出雲型装甲巡洋艦1番艦「出雲」乗組。 1923年(大正12年)9月20日附で海軍少尉任官、同日附で研究のため長門型戦艦1番艦「長門」乗組みを命じられる。12月7日、海軍砲術学校普通科入学。 翌年1924年(大正13年)4月、海軍砲術学校普通科を卒業すると同時に、海軍水雷学校入学。7月4日、海軍水雷学校普通科学生教程を卒業。同日附で通報艦「満州」に配属される。12月1日、吉川は「満州」から峯風型駆逐艦8番艦「汐風」へ転任。 1925年(大正14年)12月1日附で海軍中尉任官。同日附で第3号掃海艇乗組を命じられる。 1927年(昭和2年)12月1日附で海軍大尉に昇進。同日附で第十一号駆逐艦砲術長となる。この後、吉川は終生駆逐艦と共に過ごす。翌年1928年(昭和3年)8月1日附で、日本海軍は第十一号駆逐艦を神風型駆逐艦6番艦「追風」と改名した。 1929年(昭和4年)2月1日附で、桃型駆逐艦「樫」配属。同年11月より、吉川は海軍水雷学校高等科に進んだ。 1930年(昭和5年)12月1日附で、吉川は江風型駆逐艦1番艦「江風」水雷長に補職。 1931年(昭和6年)11月1日、江風水雷長から睦月型駆逐艦8番艦「長月」水雷長へ転任。 1934年(昭和9年)11月15日、吉川(長月水雷長)は樅型駆逐艦「菫」駆逐艦長に補職。 1935年(昭和10年)11月15日、吉川は海軍少佐に進級。同日附で高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」水雷長を命じられる。 1936年(昭和11年)12月1日、鳥海水雷長から神風型駆逐艦3番艦「春風」駆逐艦長へ転任。後任の鳥海水雷長は広瀬弘少佐となる(後日、広瀬は駆逐艦大潮沈没時艦長、島風型島風初代艦長等を歴任)。 1937年(昭和12年)11月15日、当時の弥生駆逐艦長折田常雄少佐が吹雪型駆逐艦12番艦「敷波」駆逐艦長へ転任(後日、折田は陽炎型駆逐艦13番艦「浜風」初代艦長。秋月型駆逐艦2番艦「照月」初代駆逐艦長。照月艦長として第三次ソロモン海戦に参加)。折田の後任として、吉川は睦月型駆逐艦3番艦「弥生」駆逐艦長に任命される。 吉川は翌年1938年(昭和13年)9月15日まで弥生艦長を務め、同日附で第24駆逐隊附となった。10月5日、白露型駆逐艦8番艦「山風」駆逐艦長に補職。 1939年(昭和14年)10月15日附で、当時の江風駆逐艦長横井稔中佐が朝潮型駆逐艦1番艦朝潮駆逐艦長に転じる。この人事異動により、吉川(山風艦長)は白露型2隻(山風、江風)艦長兼務を命じられる。11月15日、峯風型駆逐艦7番艦羽風駆逐艦長豊島俊一少佐が「山風」駆逐艦長に任命され、吉川は江風駆逐艦長に専念することになった。 1940年(昭和15年)11月15日附で、海軍中佐に進級。同日附で朝潮型2番艦「大潮」駆逐艦長を命じられる。吉川の大潮着任により、「大潮」と姉妹艦「夏雲」駆逐艦長を兼務していた塚本守太郎中佐は兼務を解かれた(吉川と塚本は海軍兵学校同期)。吉川は40歳で太平洋戦争に臨む。前述のように、多数の駆逐艦長を歴任。豪胆さ、偉ぶらない人柄、部下達に対する思いやりで信望を集めた。
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海軍士官として
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「フランク・J・フレッチャー」の記事における「海軍士官として」の解説
フレッチャーは戦艦ロードアイランド (USS Rhode Island, BB-17)、オハイオ (USS Ohio, BB-12)、メイン (USS Maine, BB-10) での勤務の後、イーグル (USS Eagle)、フランクリン (USS Franklin) に乗艦する。1909年11月にチョウンシー (USS Chauncey, DD-3) へ配属され、アジア水雷艦隊の一員として勤務する。続いてデイル (USS Dale, DD-4) で1910年4月から1912年3月まで勤務した後、再びチョウンシーに部隊指揮官として配属される。1912年12月に戦艦フロリダ (USS Florida, BB-30) へ転属となり、1914年4月にはベラクルス占領に参加した。ベラクルスにおける戦闘の功績でフレッチャーは名誉勲章を受章した。
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