海軍士官候補生
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「クレメンツ・マーカム」の記事における「海軍士官候補生」の解説
1844年5月、マーカムは叔母であるマンスフィールド伯爵夫人から、海軍大臣のジョージ・シーモア海軍准将に紹介された。少年のマーカムは提督に良い印象を抱き、それがイギリス海軍の士官候補生になる道に繋がった。1844年6月28日、マーカムはポーツマスに行き、数日後にはシーモアのHMSコリングウッドに乗艦することになった。コリングウッドは太平洋までの長距離航海のために艤装されており、シーモアが太平洋基地の指揮官となるはずだった。その航海はほぼ4年間続いた。マーカムの社会的繋がりによって比較的快適な時間を確保できることになった。マーカムはしばしば提督から午餐に招かれたとされており、提督の妻や娘も乗艦していた。艦はリオデジャネイロ、フォークランド諸島を訪問し、嵐の南極海を通過した後、太平洋基地の本部があるチリのバルパライソに到着した。 コリングウッドは数週間航海を中断した後に、再度出港し、次はペルー海岸の主要港カヤオに向かった。これはマーカムの後の経歴にとって大きな存在となる国を初めて訪れることになった。その後の2年間、コリングウッドは太平洋を巡航し、サンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)、メキシコ、タヒチを訪れた。タヒチではフランス総督に対する国粋主義者の反乱を、マーカムも支援しようとした。このとき海軍の教官に対して無礼行為を問われて罰せられ、初めて海軍の規律を味わうことになった。マーカムは朝の8時から日没まで、甲板の上で立たされていた。1846年6月25日、マーカムはミッドシップマンへの昇級試験にパスした。10人いた同期の中では3番目だった。チリとペルーの港で過ごされた長い期間により、スペイン語を覚えることもできた。 この航海の終わり近く、マーカムの将来に対する大志は、伝統的な海軍の経歴を積むことから明らかに変わっていた。この時既に探検家かつ地理学者になろうと考えており、その志を抱いて帰路に着いた。1848年7月にポーツマスに到着すると、父に海軍を去る意思を伝えたが、父からは海軍に留まるよう説得された。マーカムは、地中海で短期間任務に就いた後、イギリスのスピットヘッドやアイルランドのコーヴ・オブ・コークを本拠とする間に活動しない期間があり、さらに海軍に対する興味を無くした。しかし、ジョン・フランクリン卿の北極遠征隊が失踪し、1850年代初期に、その新たな捜索を行う4隻の船が集められたことを知った。マーカムはその家族の影響力を使ってこの遠征の一員になることができ、1850年4月1日、この船隊の主要な2隻の艦の1つ、HMSアシスタンス乗艦を指名された。
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