海軍増強への尽力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 09:23 UTC 版)
1915年(民国4年)12月、袁世凱が皇帝に即位すると、劉冠雄は二等公に封じられた。しかし劉自身は、袁の即位に好意的ではなかった。そのため1916年(民国5年)1月、劉は北京を離れて南下し、海軍への統制を強めながらも、反袁の護国軍討伐には積極的に動こうとしなかった。 同年6月に袁世凱が死去すると、劉冠雄はいったん辞職して天津に寓居する。同年7月、国務総理段祺瑞の要請により、再び海軍総長となり、王士珍内閣、銭能訓内閣でも海軍総長をつとめた。劉は、海軍増強こそが国防の要であるとの考えから、10か年計画による海軍増強計画の推進に尽力した。実際には、北京政府の財力不足や陸軍重視姿勢により、完全な実現こそならなかったものの、人材育成など一定の成果は残している。1919年(民国8年)12月、海軍総長を辞任した。 1922年(民国11年)11月、劉冠雄は、福建鎮撫使に任命された。しかし当時の福建省では、北京政府派の薩鎮氷と南方政府派の林森とが激しい政治抗争を繰り広げていた。後者の圧力を受ける形で、劉はまもなく福州を離れて、廈門に移った。翌年1月、孫伝芳らの支援を受けた薩が林を駆逐し、一時的に薩と劉が揃って弁理福建善後事宜に任命された。しかし、劉はすぐに閩粤海疆防禦使に異動した。同年11月、劉は引退して、天津に寓居した。 1927年(民国16年)6月24日、劉は天津で病没した。享年67(満66歳)。
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