海軍基地、高速道路、人種統合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 02:01 UTC 版)
「ノーフォーク (バージニア州)」の記事における「海軍基地、高速道路、人種統合」の解説
1907年、シーウェルズ・ポイントで、ジェームズタウン入植300周年を記念してジェームズタウン博覧会が開かれた。この博覧会においては、海軍による大規模な軍事パレードが行われ、シーウェルズ・ポイントの立地条件のよさを示した。その10年後、第一次世界大戦時中の1917年、ジェームズタウン博覧会の会場跡地にノーフォーク海軍基地が設置された。 第二次世界大戦後、州間高速道路の登場によって、ノーフォークとその周辺にも高速道路網が整備された。1952年にエリザベス川の河底を通り、ノーフォークとポーツマスを結ぶダウンタウン・トンネルが完成したのを皮切りに、その後15年にわたって、ノーフォークとバージニアビーチ、ハンプトン・ローズ対岸のバージニア半島とを結ぶ道路が次々と開通した。1957年には、ハンプトン・ローズを橋と海底トンネルで渡り、ノーフォークとハンプトンを結ぶハンプトン・ローズ・ブリッジ・トンネルが、1962年にはダウンタウン・トンネルよりも北でエリザベス川の河底を渡り、ノーフォークのゲント地区とポーツマスを結ぶミッドタウン・トンネルが、そして1967年にはバージニアビーチ・ノーフォーク高速道路がそれぞれ開通した。その後もハンプトン・ローズ地域における道路網の整備は続き、1989年にはダウンタウン・トンネルが4車線化され、1991年にはエリザベス川東支流を渡る跳開橋、バークレー・ブリッジが8車線化された。1992年には、ハンプトン・ローズ・ブリッジ・トンネルよりも西側でハンプトン・ローズを渡り、ポーツマスとニューポートニューズを結ぶモニター・メリマック・メモリアル・ブリッジ・トンネルが開通し、ノーフォーク・ポーツマス両市の外郭を囲むハンプトン・ローズ環状線が完成した。 1954年、連邦最高裁判所がブラウン対教育委員会裁判において、学校における人種分離は違憲であるとの判決を下し、人種統合を命令すると、バージニア州ではこれに対抗して「マッシブ・レジスタンス」と呼ばれる州法を公布した。これによりバージニア州議会は、人種統合した公立学校に予算を配分することを禁じた。一方、ノーフォークの私立学校はブラウン判決を支持し、人種統合へと動いた。1958年、バージニアの連邦地方裁判所は人種を統合しての開校を命令したが、これに対し、バージニア州知事ジェームズ・リンジー・アーモンド・ジュニアは学校を閉鎖することを命じた。これにより、ノーフォーク市内の6校が閉鎖され、約10,000人の児童・生徒があぶれた。バージニア州最高裁判所は、マッシブ・レジスタンスは州憲法に反するものであると判じ、人種を統合しているか否かにかかわらず、全ての学校に予算を配分するよう命じた。その10日後、アーモンドは抵抗をやめ、州議会にマッシブ・レジスタンス関連の法案を撤回するように求めた。翌1959年9月、それまで人種分離が行われていたノーフォーク市内の公立学校に、17人のアフリカ系の児童が入学した。ノーフォークの地方紙、バージニアン・パイロットの編集者レノア・チェンバーズは、マッシブ・レジスタンスに反対する社説を掲載し、社説部門でピューリッツァー賞を受賞した。 20世紀前半、ノーフォークは合併によって市域を広げ、成長していった。1906年、ノーフォークはエリザベス川東支流の南岸のバークレー町を合併した。1923年には、シーウェルズ・ポイントやオーシャンビュー地区を合併し、ノーフォーク海軍基地やチェサピーク湾岸の浜辺を市域に含むようになった。1955年には、タナーズ・クリークの合併により、ノーフォークの人口は297,253人になり、バージニア州最大となった。しかし、人種統合と郊外の住宅地開発の進行により、白人の中間層は市外へと流出し(ホワイト・フライト)、1970年に307,951人を数えたのをピークに、ノーフォークの人口は減少傾向に入った。また、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、郊外の高速道路沿いに大規模なショッピングセンターやモールが開店し、それまで賑わっていたダウンタウンのグランビー・ストリート沿いの商業地区は寂れていった。
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