海軍召集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:20 UTC 版)
同1944年4月、脚本を1本も書かないうちに日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団。新藤は「戦争に行けば死ぬに決まってる」「もうシナリオは書けないのか」と絶望した。任務は新藤曰く“掃除部隊”で、最初は奈良天理教本部宿舎に海軍飛行予科練習生が配置されることになったため、次に兵庫宝塚歌劇団の宝塚大劇場や宝塚音楽学校に潜水艦乗りや航空隊(宝塚海軍航空隊)が配置されることになったため、そこを掃除するというものだった。 既に32歳ながら年下の上等水兵の若者に扱き使われ、彼らの身の周りの世話をする。上官にはクズと呼ばれ、木の棒で気が遠くなる程叩かれ続けた。兵隊は叩けば叩くほど強くなると信じられていた時代だった。天理教本部を掃除した100名のうち大半が前線に送られ、94人が戦死した。 この間、内妻の孝子は結核に罹るが、貧しさのためろくに栄養をつけることができず死去している。 1945年(昭和20年)、宝塚海軍航空隊所属にて広島市への原子爆弾投下を知り、そして第二次世界大戦終戦を迎える。これらの事は、60年後に製作された『陸に上った軍艦』(山本保博監督)で描かれた。 東京でのアパートは空襲により焼けていたため、一旦尾道の兄のところに身を寄せている。看護婦をしていた姉は当時尾道へ移っていたため無事で、被爆時には広島で看護活動をしていた。新藤自身も被爆後の広島に足を踏み入れている。そして松竹大船撮影所に復帰するため上京することになる。
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