海軍原子炉と原子力委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:44 UTC 版)
「ハイマン・G・リッコーヴァー」の記事における「海軍原子炉と原子力委員会」の解説
1946年に、潜水艦の動力に核分裂エネルギーを利用する計画が立ち上がった。同年、海軍艦船局長に就任した戦時の上司、アール・ミルズ提督の推薦もあってマンハッタン計画の中心地のひとつであったオークリッジ勤務となった。 マンハッタン計画において知り合ったロス・ガン、フィリップ・エーベルソンら物理学者と交友を進めるにつれて、彼は艦艇の推進動力としての原子力の利点を確信するようになり、海軍艦船局に新設された核動力部の部長に就任すると、オークリッジ国立研究所の責任者アルビン・M・ワインバーグとともに研究開発を進めていった。 1949年2月にはアメリカ原子力委員会の原子炉開発部勤務となり、その後海軍原子炉部門の責任者として海軍の艦艇用原子炉の開発を統括してミルズに報告した。このことは、後に彼が原子力潜水艦ノーチラスの開発を任される大きな理由となった。 リッコーヴァーを原子力潜水艦の開発責任者に据えるかどうかは、ひとえにミルズ提督の決断にかかっていた。マンハッタン計画を指揮したレズリー・グローヴス陸軍中将によれば、ミルズは極めて果断な人物に任せることを望んでおり、リッコーヴァーが「一緒に仕事をするのが難しい人物」として非常に不人気であることを知りつつも、いかなる困難が起ころうとも海軍が信じて任せうる人物はリッコーヴァーを措いて他にないと判断していたという。リッコーヴァーは、原子炉の設計に必要となる物理学的データがまだ不完全である中で高い信頼性を備えた原子炉を全幅28フィート (約8.5メートル) の潜水艦の船体に収めるという難題に取り組み、遂にノーチラスに搭載される原子炉のプロトタイプとなるS1Wを完成させた。ノーチラスは1954年に進水・就役した。 その後、1958年に中将、1973年には大将に昇進した。ユニークな性格(横柄で傲慢)、政治的コネ、責任感、海軍の原子力推進化に対する深い知識のため、彼は米海軍最長となる63年(1918年-1982年)の間 現役に留まった。この間、後に大統領となるジミー・カーターを部下に持ち、1953年にカーターが家業のピーナッツ農園を継ぐために大尉で退役するまで、彼を鍛え上げた。このときの経験を、カーターは自伝『なぜベストをつくさないのか Why not the Best?』に記している。
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