青年士官時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:00 UTC 版)
1877年(明治10年)の西南戦争時は、派遣されていたドイツ軍艦での遠洋航海中の外地で初めてその事実を知った。同年海軍少尉任官。 1878年(明治11年)、新潟県の農業・津沢鹿助の三女・登喜子と結婚した。薩摩閥の海軍士官が、士族ではなく平民の娘と結婚することは、当時としては異例のことであった。 薩摩閥のエリートとしての言動は問題を起こすこともあり、海軍中尉時代に海軍卿・榎本武揚によって非職にされたが、順調に海軍士官としての経験を積んだ。 「天城」艦長の後、1887年(明治20年)に海軍大臣伝令使となり、海軍次官・樺山資紀の欧米視察旅行に一年以上随行した。1889年(明治22年)、大佐に昇進し、「高雄」艦長や「高千穂」艦長を歴任した。
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