青年将校文化(大11制・昭5制)
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「軍服 (大日本帝国陸軍)」の記事における「青年将校文化(大11制・昭5制)」の解説
当時の瀟洒な青年将校の標準的なスタイル。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍騎兵大尉当時の西竹一(1936年) 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍航空兵大尉当時の岩橋譲三 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍航空兵大尉当時の安間克巳 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍砲兵中尉当時の李鍝公 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍砲兵中尉頃の李鍵公 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍歩兵中尉当時の中橋基明 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍歩兵中尉頃の栗原安秀 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆる派手なロス式。(帽子の内部はその形状を維持するために綿の詰め物をしている)陸軍歩兵中尉(戦車第1連隊附)当時の西住小次郎 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆるチェッコ式ないし派手なロス式。陸軍歩兵少尉(歩兵第3連隊附)当時の高橋太郎 瀟洒な青年将校。軍帽はいわゆるチェッコ式。陸軍歩兵少尉(歩兵第1連隊附)当時の朝香宮孚彦王 瀟洒な青年将校。美脚効果を意識したタイトな軍衣・短袴を着用した長身の連隊旗手たる陸軍歩兵少尉 瀟洒な青年将校(雨覆を羽織った歩兵尉官) 瀟洒な青年将校(右端、陸軍砲兵中尉当時の李鍝公) 1913年(大正2年)頃、明治45年制式最初期当時の瀟洒な青年将校のスタイル。軍帽の襠形状は控えめながら目庇は急角度に付され、軍衣の襟は高く、後年の青年将校文化の萌芽が見て取れる。陸軍歩兵少尉(近衛歩兵第4連隊附)当時の大山柏 大正11年制式ないし昭和5年制式最初期当時の特に瀟洒な青年将校のスタイル。軍帽(クラッシュ型)・軍衣・徽章類に留まらず、美脚効果を意識した短袴・長靴により極めてスマートな印象。近衛騎兵中尉ないし大尉(近衛騎兵連隊)の閑院宮春仁王 昭和5年制式最初期当時の特に瀟洒な青年将校のスタイル。軍帽(チェッコ式)の襠は特に高く、襟章や雨蓋の造形美に凝り、強く括れたウエストのタイトめな仕立て。陸軍砲兵少尉(近衛野砲兵連隊附)当時の北白川宮永久王 昭和5年制式最初期当時の瀟洒な青年将校のスタイル。陸軍騎兵少尉(騎兵第1連隊附)当時の竹田宮恒徳王 他方、若年層(青年将校)を中心とする将校准士官の間では、軍衣・夏衣等の襟を高く、ウエストは絞り、襟章と肩章の形に凝り、雨蓋は急角度に付けられ、形状もシャープないし大型のものを用い、着丈は短く釦配列も上に詰め、短袴は腿部の膨らみを大きくするか逆に抑え美脚効果を意識したもの、長袴は脚長に見えるハイウエストで細見なもの、生地色は従来の褐色系から濃緑や薄緑といった青みを増した緑系のものが大流行する。 軍帽もチェッコ式(チェコ式、チェック式、チェック式とも。襠の前部を特に高くする形状)、クラッシュ型(芯金を抜き襠部全体を崩した形状)、派手なロス式(露式とも。ロシア軍に倣った襠が全周に大きく張り出した形状)と言った、帽子の内部はその形状を維持するために綿の詰め物をしてると大正時代末頃まで標準だった襠全体が低く整った控えめで大人しい形状を打破する、大型で派手なものが千差万別流行し、同時に目庇(眉庇)は小さいもの、急角度に付された極めて見栄えのするものも同時に大流行した。 それまで外見で将校准士官と下士官兵の軍服に特に大差は無かったが、これらの青年将校文化が華やかなりし頃は、外国軍の要素を取り入れ、明らかに将校と解る昭和新時代の当時の若者らしい、自己主張を持ったお洒落でスマートな装いが多く現れた。 青年将校文化は軍衣袴・夏衣袴・軍帽・正衣袴・正帽・外套・雨覆(マント)・外被・襦袢・手套といった被服のみならず、編上靴・短靴・長靴・巻脚絆・革脚絆・軍刀・指揮刀・図嚢・拳銃・拳銃嚢といった軍装品全般にまで広まることとなり、これら軍装品を扱うテイラーなど各専門店や百貨店、偕行社でも顧客獲得のための競争を行っていた。中でも変わり物としては、栗原安秀陸軍歩兵中尉らと二・二六事件を共謀した中橋基明陸軍歩兵中尉のように、雨覆(マント)の裏地を真紅の緋色生地で仕立てた物などが存在している(緋色裏地の軍衣等は明治19年制式時代等に存在)。 なお、これら瀟洒かつ自由な文化の源流自体は明治期(シャープな雨蓋の造形は明治39年制式・明治45年制式最初期に存在等)にさかのぼり、例として明治45年制式(大正初期)時代に既に朝香宮鳩彦王(右掲)が高襟・高襠かつウエストを絞り雨蓋の造形に凝った軍帽・軍衣を着用している。本格的な大流行自体は概ね昭和5年制式時代であるが、流行の兆し自体は大正11年制式当時には既に見られており、また当然のちの昭和13年制式(青年将校文化(昭13制))にも引き継がれているため、決して(青年将校文化は)昭和5年制式独自のものではない。 帝国陸軍におけるこれらの青年将校文化は服制がほぼ共通の准士官間でも流行し、また、将校間においても一般階層出身者のみならず皇族・王公族・華族といった特権階層でも広く好まれ、その大流行ゆえに帝国陸軍では事実上公式に認められた一般的な文化であった。これとは対照的に、保守的な海軍では同時期のみならず全時代を通しこのような文化は皆無であり、軍服にお洒落を見出す行為の規模は陸軍と比べはるかに小さいものであった。海軍にとっては陸軍において誇りになっていた「軍人臭」は悪癖と見なされ、服装においても軍服はあくまでも「事業服(仕事着)」と見なされていた説もある。
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青年将校文化(昭13制)
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「軍服 (大日本帝国陸軍)」の記事における「青年将校文化(昭13制)」の解説
陸軍少佐。台襟は高く折襟は長く、また雨蓋は深いカーブを描く極めて派手な冬衣。李鍝公 陸軍航空兵中尉。襟部は平凡な形状ながらも釦配列も上に詰めた冬衣ないし夏衣、軍帽は特に派手なチェッコ式。谷島喜彦 陸軍中尉。冬衣自体は平凡な形状ながらも、軍帽は特に派手なチェッコ式。新海希典 陸軍大尉。台襟は高く第1釦に被るさらに長い折襟。軍帽は派手なチェッコ式。坂井菴 旧制式に引き続き軍装品に個性を見いだす青年将校文化は継承された。軍帽(チェッコ式・クラッシュ型等)や軍服の仕立て、生地色など全体の体裁自体は旧制式の文化と特に変わらないが、本制式で改正された「襟」は台襟は高いままに、従来の立襟を彷彿とさせる折襟部分の開きが小さい仕立てが流行した。また、折襟を固定したり(台襟と縫い付ける、スナップ・ボタンを仕込む等)、第1釦に被る長さ・台襟より大きな折襟を持つものも好まれた。 昭和13年制式初期には襟章は制式の規格よりやや細長い物が、また、通常礼装用の肩章には正肩章と同等の高級品(体裁の良い丸打金線)が好まれた。 さらに、青年将校が追い求める格好の良さに、(各部および憲兵を除く)「兵科区分」の廃止(胸章)と戦時という国情が重なり、徒歩本分者(将官・佐官を除く歩兵等の尉官准士官。常勤(略装)時は短靴と長袴を、演習・野戦(軍装)時は編上靴と短袴に巻脚絆ないし革脚絆を、儀式の軍装時は短靴に巻脚絆を主用する)の間でも儀式の軍装時を除き、大々的に長靴を常時履く者が増加する事となった。
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