青年将校文化とは? わかりやすく解説

青年将校文化(大11制・昭5制)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 15:21 UTC 版)

軍服 (大日本帝国陸軍)」の記事における「青年将校文化(大11制・昭5制)」の解説

当時瀟洒な青年将校標準的なスタイル軍帽いわゆるチェッコ式。陸軍騎兵大尉当時西竹一1936年瀟洒な青年将校軍帽いわゆるチェッコ式。陸軍航空兵大尉当時岩橋譲三 瀟洒な青年将校軍帽いわゆるチェッコ式。陸軍航空兵大尉当時の安間克巳 瀟洒な青年将校軍帽いわゆるチェッコ式。陸軍砲兵中尉当時李鍝公 瀟洒な青年将校軍帽いわゆるチェッコ式。陸軍砲兵中尉頃の李鍵公 瀟洒な青年将校軍帽いわゆるチェッコ式。陸軍歩兵中尉当時中橋基明 瀟洒な青年将校軍帽いわゆるチェッコ式。陸軍歩兵中尉頃の栗原安秀 瀟洒な青年将校軍帽いわゆる派手なロス式。(帽子内部はその形状維持するために綿の詰め物をしている)陸軍歩兵中尉戦車第1連隊附)当時西住小次郎 瀟洒な青年将校軍帽いわゆるチェッコ式ないし派手なロス式。陸軍歩兵少尉歩兵第3連隊附)当時高橋太郎 瀟洒な青年将校軍帽いわゆるチェッコ式。陸軍歩兵少尉歩兵第1連隊附)当時朝香宮孚彦王 瀟洒な青年将校美脚効果意識したタイトな軍衣短袴着用した長身連隊旗手たる陸軍歩兵少尉 瀟洒な青年将校雨覆羽織った歩兵尉官瀟洒な青年将校右端陸軍砲兵中尉当時李鍝公1913年大正2年)頃、明治45年制式最初期当時瀟洒な青年将校スタイル軍帽の襠形状控えめながら目庇急角度付され軍衣の襟は高く後年の青年将校文化の萌芽見て取れる陸軍歩兵少尉近衛歩兵第4連隊附)当時大山柏 大正11年制式ないし昭和5年制式最初期当時の特に瀟洒な青年将校スタイル軍帽クラッシュ型)・軍衣徽章類に留まらず美脚効果意識した短袴長靴により極めてスマートな印象近衛騎兵中尉ないし大尉近衛騎兵連隊)の閑院宮春仁王 昭和5年制式最初期当時の特に瀟洒な青年将校スタイル軍帽チェッコ式)の襠は特に高く襟章雨蓋造形美凝り強く括れウエストタイトめな仕立て陸軍砲兵少尉近衛野砲連隊附)当時北白川宮永久王 昭和5年制式最初期当時瀟洒な青年将校スタイル陸軍騎兵少尉騎兵第1連隊附)当時竹田宮恒徳王 他方若年層青年将校)を中心とする将校准士官の間では、軍衣夏衣等の襟を高くウエスト絞り襟章肩章の形に凝り雨蓋急角度に付けられ、形状シャープないし大型のものを用い着丈短く配列も上に詰め短袴は腿部の膨らみ大きくするか逆に抑え美脚効果意識したもの、長袴は脚長に見えハイウエスト細見なもの、生地色従来褐色系から濃緑薄緑といった青み増した緑系のものが大流行する。 軍帽チェッコ式(チェコ式、チェック式、チェック式とも。襠の前部を特に高くする形状)、クラッシュ型(金を抜き襠部全体崩した形状)、派手なロス式(露式とも。ロシア軍倣った襠が全周大きく張り出した形状と言った帽子内部はその形状維持するために綿の詰め物をしてると大正時代末頃まで標準だった襠全体低く整った控えめ大人しい形状打破する大型派手なものが千差万別流行し同時に目庇眉庇)は小さいもの、急角度付され極めて見栄えのするものも同時に大流行したそれまで外見将校准士官下士官兵軍服に特に大差無かったが、これらの青年将校文化が華やかなりし頃は、外国軍要素取り入れ明らかに将校解る昭和新時代当時若者らしい、自己主張持った洒落スマートな装い多く現れた。 青年将校文化は軍衣袴・夏衣袴・軍帽・正衣袴・正帽外套雨覆マント)・外被襦袢手套といった被服のみならず編上靴短靴長靴巻脚絆・革脚絆軍刀指揮刀図嚢拳銃拳銃嚢といった軍装全般にまで広まることとなり、これら軍装品を扱うテイラーなど各専門店百貨店偕行社でも顧客獲得のための競争行っていた。中でも変わり物としては、栗原安秀陸軍歩兵中尉らと二・二六事件共謀した中橋基明陸軍歩兵中尉のように、雨覆マントの裏地を真紅緋色生地仕立てた物などが存在している(緋色裏地軍衣等は明治19年制式時代等に存在)。 なお、これら瀟洒かつ自由な文化源流自体明治期シャープ雨蓋造形明治39年制式明治45年制式最初期存在等)にさかのぼり、例として明治45年制式大正初期時代に既に朝香宮鳩彦王(右掲)が高襟・高襠かつウエスト絞り雨蓋造形凝った軍帽軍衣着用している。本格的な大流行自体概ね昭和5年制式時代であるが、流行兆し自体大正11年制式当時には既に見られており、また当然のちの昭和13年制式(青年将校文化(昭13制))にも引き継がれているため、決して(青年将校文化は)昭和5年制式独自のものではない。 帝国陸軍におけるこれらの青年将校文化は服制がほぼ共通の准士官間でも流行しまた、将校間においても一般階層出身者のみならず皇族・王公族華族といった特権階層でも広く好まれ、その大流行ゆえに帝国陸軍では事実上公式に認められ一般的な文化であった。これとは対照的に保守的な海軍で同時のみならず時代通しこのような文化皆無であり、軍服にお洒落見出す行為規模陸軍比べはるかに小さいものであった海軍にとっては陸軍において誇りになっていた「軍人臭」は悪癖と見なされ、服装においても軍服あくまでも事業服(仕事着)」と見なされていた説もある。

※この「青年将校文化(大11制・昭5制)」の解説は、「軍服 (大日本帝国陸軍)」の解説の一部です。
「青年将校文化(大11制・昭5制)」を含む「軍服 (大日本帝国陸軍)」の記事については、「軍服 (大日本帝国陸軍)」の概要を参照ください。


青年将校文化(昭13制)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 15:21 UTC 版)

軍服 (大日本帝国陸軍)」の記事における「青年将校文化(昭13制)」の解説

陸軍少佐台襟高く折襟長く、また雨蓋は深いカーブを描く極めて派手な冬衣李鍝公 陸軍航空兵中尉。襟部は平凡な形状ながらも釦配列も上に詰めた冬衣ないし夏衣軍帽は特に派手なチェッコ式。谷島喜彦 陸軍中尉冬衣自体平凡な形状ながらも、軍帽は特に派手なチェッコ式。新海希典 陸軍大尉台襟高く第1釦に被るさらに長い折襟軍帽派手なチェッコ式。坂井菴 旧制式に引き続き軍装品に個性見いだす青年将校文化は継承された。軍帽チェッコ式・クラッシュ型等)や軍服仕立て生地色など全体体裁自体旧制式の文化と特に変わらないが、本制式改正された「襟」は台襟は高いままに、従来立襟彷彿とさせる折襟部分開き小さ仕立て流行したまた、折襟固定したり(台襟縫い付ける、スナップ・ボタンを仕込む等)、第1釦に被る長さ台襟より大きな折襟を持つものも好まれた。 昭和13年制式初期には襟章制式規格よりやや細長い物が、また、通常礼装用の肩章には正肩章同等の高級品(体裁良い打金線)が好まれた。 さらに、青年将校追い求める格好良さに、(各部および憲兵を除く)「兵科区分」の廃止胸章)と戦時という国情重なり徒歩本分者(将官佐官を除く歩兵等の尉官准士官常勤略装)時は短靴長袴を、演習野戦軍装)時は編上靴短袴巻脚絆ないし革脚絆を、儀式軍装時は短靴巻脚絆主用する)の間でも儀式軍装時を除き大々的長靴常時履く者が増加する事となった。

※この「青年将校文化(昭13制)」の解説は、「軍服 (大日本帝国陸軍)」の解説の一部です。
「青年将校文化(昭13制)」を含む「軍服 (大日本帝国陸軍)」の記事については、「軍服 (大日本帝国陸軍)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「青年将校文化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「青年将校文化」の関連用語

青年将校文化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



青年将校文化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの軍服 (大日本帝国陸軍) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS