青年将校運動とは? わかりやすく解説

青年将校運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 07:00 UTC 版)

藤井斉」の記事における「青年将校運動」の解説

藤井青年将校の間で高まっていた国家革新運動昭和維新)の海軍側の指導者であった兵学校以来同志王師会組織し発足当時会員10前後ロンドン海軍軍縮会議のころは40数名増加している。この王帥会は政党政治非難し国家改造目的したものである。藤井西田税組織した天剣党に加盟し陸軍青年将校との連携図っており、十月事件への参加考えていた。しかし、橋本欣五郎らに不信抱き途中で離脱している。 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約批准には強硬に反対した。海軍大臣財部彪軍縮会議から帰国し東京駅着いた際に、『売国全権財部を吊迎す』と書かれたノボリ掲げたのは藤井三上卓らである。 その後も『憂国慨言』と名づけ冊子海軍部内配布し謹慎7日処分受けた。しかし、藤井右翼団体と結び、海軍省濱口雄幸内閣揺さぶり工作行い反対活動継続している。 藤井影響を与えた人物に、大川周明井上日召権藤成卿らがいた。北一輝ともつながりはあったが、農本自治社会唱える権藤共鳴していたという。また、大洗護国堂を頻繁に訪れては、所在していた井上議論重ね盟約結んだ。なお、井上の兄は殉職した井上二三雄海軍中佐である。 国家組織改造志す藤井大川から革命計画聞かされ勇躍していたという。その計画満州支那人利用して日本人数名殺害させ、日中間の対立起こすことで国家混乱させ、それに乗じ議会襲撃し革命成し遂げるというものであった。しかしこの革命計画激怒した井上日召叱責され藤井面目を失った藤井目的達成には指導者層の変革が必要であるとし、実力行動考えるようになる井上から四元義隆通じて1932年昭和7年2月決起伝えられ藤井同意与えていたが、1月発生した第一次上海事変出征することとなり、実力行動に移ることなく戦死した藤井戦死2月5日であったが、井上中心とした血盟団事件2月9日井上準之助暗殺始まった海軍側の同志であった三上卓古賀清志らは5月15日犬養毅首相総理官邸において射殺した五・一五事件)。

※この「青年将校運動」の解説は、「藤井斉」の解説の一部です。
「青年将校運動」を含む「藤井斉」の記事については、「藤井斉」の概要を参照ください。

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