青年将校運動
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藤井は青年将校の間で高まっていた国家革新運動(昭和維新)の海軍側の指導者であった。兵学校以来の同志と王師会を組織し、発足当時の会員は10名前後でロンドン海軍軍縮会議のころは40数名に増加している。この王帥会は政党政治を非難し、国家の改造を目的としたものである。藤井は西田税が組織した天剣党に加盟し、陸軍青年将校との連携を図っており、十月事件への参加も考えていた。しかし、橋本欣五郎らに不信を抱き途中で離脱している。 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約批准には強硬に反対した。海軍大臣・財部彪が軍縮会議から帰国し、東京駅に着いた際に、『売国全権財部を吊迎す』と書かれたノボリを掲げたのは藤井、三上卓らである。 その後も『憂国慨言』と名づけた冊子を海軍部内に配布し謹慎7日の処分を受けた。しかし、藤井は右翼団体と結び、海軍省や濱口雄幸内閣の揺さぶり工作を行い反対活動を継続している。 藤井に影響を与えた人物に、大川周明、井上日召、権藤成卿らがいた。北一輝ともつながりはあったが、農本自治社会を唱える権藤に共鳴していたという。また、大洗の護国堂を頻繁に訪れては、所在していた井上と議論を重ね、盟約を結んだ。なお、井上の兄は殉職した井上二三雄海軍中佐である。 国家組織の改造を志す藤井は大川から革命計画を聞かされ勇躍していたという。その計画は満州で支那人を利用して日本人を数名殺害させ、日中間の対立を起こすことで国家を混乱させ、それに乗じ議会を襲撃し革命を成し遂げるというものであった。しかしこの革命計画に激怒した井上日召に叱責され、藤井は面目を失った。 藤井は目的達成には指導者層の変革が必要であるとし、実力行動を考えるようになる。井上から四元義隆を通じて1932年(昭和7年)2月の決起を伝えられ、藤井は同意を与えていたが、1月に発生した第一次上海事変に出征することとなり、実力行動に移ることなく戦死した。 藤井の戦死は2月5日であったが、井上を中心とした血盟団事件は2月9日の井上準之助暗殺で始まった。 海軍側の同志であった三上卓、古賀清志らは5月15日、犬養毅首相を総理官邸において射殺した(五・一五事件)。
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