第二駆逐隊(フタロイ・エスミーニツ)
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当時14歳のストライカーと13歳のベレッタも所属。 スパス 当時14歳、身長161センチメートル。かつてのマルコ・アドリアーノのコードネーム。15年前は命令に忠実な少年であった。当時から得物はワイヤーであり、グローブをはめていた。 黄昏種を駆逐していく中で化け物である彼らを身を呈して庇う健常者達の姿を見続けたことで自らの行動の意味が分からなくなり、どちらが化け物か分からないという思いについて考え、悩んでいる。現在はマーベリック達と袂を別ち脱退している。 マーベリック 当時18歳、身長165センチメートル。得物は剣。エスミーニツの中心的な存在の女性。スパスを可愛がっており、彼に黄昏種が悪魔や化け物だと教え込んだ人物でもある。幻覚を見ており、男性が彼女だけに見えている。 スパスによって殺される。 ミニミ 当時16歳、身長167センチメートル。顔半分に火傷を負っている少年。両腕に装備した小型火炎放射器で対象を焼き殺す。近接武器としてカランビットナイフも所持。
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第二駆逐隊(フタロイ・エスミーニツ)
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15年前エルガストルムを襲撃し黄昏種駆逐の名のもとに大量虐殺を起こした部隊。健常者にも甚大な被害を出し、その後解体された。スピンオフ作品「GANGSTA:CURSED. EP_MARCO ADRIANO」は第二駆逐隊時代のスパス(マルコ)を主人公とする物語。
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第二駆逐隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 17:21 UTC 版)
8月15日、日本海軍は夕雲型駆逐艦3隻(早霜、秋霜、清霜)により第2駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期、旗艦能代)に編入した。第2駆逐隊司令は陽炎型駆逐艦浦風初代艦長等を歴任した白石長義大佐。 詳細は「レイテ沖海戦」を参照 1944年(昭和19年)3月頃、大本営陸軍部(当時の参謀総長は東条英機総理大臣)は、シンガポール所在の南方軍総司令部(総司令官寺内寿一元帥)をマニラに移すことを要望した。5月21日、南方軍総司令部はマニラに移転した。だが南方軍は「マニラでは総司令部の位置が東に偏りすぎる。ビルマ方面(インパール作戦)の指導にも支障をきたす」などの理由で、不満を持っていた。その後、9月下旬に山下奉文大将が第14方面軍司令官に任命され、大本営・南方軍とも南方軍総司令部のサイゴン移転に同意する。南方軍総司令部は、10月20日を目途にマニラからサイゴンへ移転する予定だった。この任務に協力するため、第2駆逐隊は南西方面艦隊の指揮下に入った。10月14日、第2駆逐隊の2隻(秋霜、早霜)はリンガ泊地を出撃し、マニラに向かった(清霜はリンガ泊地待機)。2隻(秋霜、早霜)は10月17日午前8時にマニラ湾口に到着するが、同地が第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受けていたため、聯合艦隊命令により引き返してブルネイ湾に針路を向けた。この日は、アメリカ軍大部隊がレイテ湾口のスルアン島に来襲した日でもある。 10月18日、捷一号作戦発動に伴って、第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将・海兵38期、第二艦隊司令長官)はリンガ泊地を出撃する。10月19日、第2駆逐隊(早霜、秋霜)はブルネイ着。第一遊撃部隊も遅れてブルネイに到着した。 10月22日、第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)はブルネイ湾を出撃した。翌10月23日、パラワン水道においてアメリカ潜水艦の攻撃により重巡洋艦愛宕(第二艦隊旗艦)と摩耶が沈没し、高雄が大破した。高雄は、駆逐艦朝霜、長波に護衛されて戦線を離脱した。 10月24日、シブヤン海を航行する栗田艦隊(旗艦大和)はアメリカ軍機動部隊艦載機の波状攻撃を受けた。その日の早霜は、第一遊撃部隊・第一部隊(戦艦〈大和、武蔵、長門〉、重巡〈妙高、羽黒、鳥海〉、第二水雷戦隊〔軽巡〈能代〉、駆逐艦〈島風〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉)に属していた(第2駆逐隊の清霜は第一遊撃部隊第二部隊〈指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官〉所属)。米軍機動部隊艦載機の空襲で第2駆逐隊からは秋霜が若干の損傷を受け、清霜も損傷する。駆逐艦浜風(昼間空襲で損傷、速力低下)と共に戦艦武蔵を護衛して栗田艦隊から分離した。 10月25日朝、第一遊撃部隊(栗田艦隊、旗艦「大和」)はサマール島沖で米軍機動部隊(護衛空母部隊)を追撃する(サマール島沖海戦)。戦闘開始時の第一遊撃部隊は、第一戦隊(大和、長門)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(熊野、鈴谷、筑摩、利根)、第二水雷戦隊(軽巡〈能代〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型〈島風〉)、第十戦隊(旗艦〈矢矧〉、第4駆逐隊〈野分〉、第17駆逐隊〈浦風、雪風、磯風〉)であった。第二水雷戦隊の戦果は僅少だった。同日夕刻(午後5時前後)、早霜は爆撃を受けて損傷する。栗田長官は早霜単艦でのコロン湾回航を命じたが、続いて秋霜に早霜掩護を下令した。秋霜は栗田艦隊主隊から分離反転して早霜に合流、早霜も応急修理により自力航行可能となったので、2隻(秋霜、早霜)だけでサンベルナルジノ海峡を突破、栗田艦隊を追いかけた。 10月26日午前7時50分、2隻(秋霜、早霜)は栗田艦隊本隊を発見、秋霜は第2駆逐隊司令(白石大佐、早霜座乗)の命令により早霜護衛をやめた(15分後に対空戦闘開始)。空襲終了後の9時すぎ、秋霜は再び栗田艦隊本隊から分離して早霜のそばに戻ってきた。一方、空襲で能代が沈没。秋霜は早霜と分離して能代の遭難現場に向かい、浜波と共同し能代乗組員を救助している。 取り残された早霜はミンドロ島南方を単独航行中に第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の攻撃を受ける。艦首部と艦中央部の命中弾によって艦首と二番煙突を吹き飛ばされ、沈没を防ぐためにアンティーケ州セミララ島の浅瀬(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯12度4分5.3秒 東経121度22分8.8秒 / 北緯12.068139度 東経121.369111度 / 12.068139; 121.369111座標: 北緯12度4分5.3秒 東経121度22分8.8秒 / 北緯12.068139度 東経121.369111度 / 12.068139; 121.369111)に擱座した。すると沈没した重巡洋艦鈴谷乗組員を収容して栗田艦隊から遅れていた沖波が、擱座した早霜を発見して近寄ってきた。燃料に海水が混じったため早霜の使用可能燃料は5トン程度しかなく、沖波も余裕はなかったが早霜に横付して補給を開始する。この時、早霜と沖波は藤波が2隻から約10km程沖合を航行するのを発見した。だが、藤波は空襲を受け、早霜と沖波の目前で轟沈した。また早霜と沖波も空襲を受けたため、沖波は横付を離して回避に転じる。沖波は早霜を残してコロン湾へ向かった。 早霜が座礁した頃、レイテ島への輸送作戦(多号作戦)からの帰途に空襲で沈没した軽巡洋艦鬼怒と駆逐艦浦波救援のため、第一水雷戦隊の駆逐艦不知火はコロン湾を出撃、シブヤン海に向かった。だが鬼怒を発見できず、帰途についた。10月27日午前9時35分頃、不知火は座礁中の早霜を発見して接近したが、セミララ島の西方海域で米軍機動部隊艦載機の空襲を受けて沈没した。早霜はその光景を目撃することになった。藤波に続いて2度目の目撃である。 11月1日、重巡洋艦那智(第二遊撃部隊旗艦)の水上偵察機が擱座している早霜を発見して着水し、不知火の最期を聞きだした。その後、早霜の船体は放棄されたが、田中大尉以下約30数名が早霜に残っていたという。アメリカ軍によるフィリピン奪回が進んで後、アメリカ海軍の調査班が擱座している早霜を調査したが、残留乗組員がその後どうなったかは定かではない。座礁するほどの浅瀬のため、早霜の船体とほぼ同規模の海中構造物が、セミララ島イトガオ湾に現存することが衛星写真から判る。 12月1日、平山中佐は早霜駆逐艦長の職務を解かれた。1945年(昭和20年)1月10日、駆逐艦早霜は夕雲型型逐艦、第2駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。
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