第二革命の失敗と日本への亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:28 UTC 版)
「蔣介石」の記事における「第二革命の失敗と日本への亡命」の解説
中華民国初の国会選挙を控えた1912年8月25日、孫文率いる中国同盟会を中心に各政治結社が合流して国民党が結成された。翌年3月、国民党は国会選挙に圧勝したが、独裁を志向する大総統・袁世凱は、3月20日、孫文に代わって国民党の実権を握り、議院内閣制を志向していた宋教仁を暗殺した。宋の暗殺により国民党での実権を掌握した孫文は、独裁を強める袁世凱に対抗して武装蜂起を試み、「第二革命」を起こした。中華民国の閣僚の地位にあった陳其美も上海に戻った。このとき蔣介石はすでに日本から帰国し奉化県渓口鎮に戻っていたが、5月には上海に赴き、陳其美の下で国民党員となっていた。「第二革命」が勃発すると、陳は上海に在って討袁軍総司令と称し、蔣介石率いる第五団に命じて蜂起を企てたが、上海市内は政府軍に押さえられており、蔣が説得に当たったものの、第五団の大勢が政府軍についたため、蜂起は失敗した。陳は地下に潜伏したが、蔣介石は日本に亡命した。そして、7月に勃発した「第二革命」自体も8月には失敗に終わり、孫文も日本へ亡命した。 孫文は日本を革命の根拠地とし、革命達成のための教育機関を設置した。このうち、日本人の退役将校の支援を受けた軍事専門家の養成機関「浩然廬」の教官に蔣介石が選ばれた。しかし、1913年12月1日に開校した浩然廬であったが、翌年6月、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こしたために、日本の官憲によって解散処分となった。 1914年7月8日、孫文は議会政党であった国民党を解体し、東京において中華革命党を結成、その総理(党首)に就任した。この党は議会制を否定する「革命党」であるとともに、孫文に絶対的忠誠を尽くす集団としての性格を帯びていた。蔣介石の師である陳其美は党総務部長となって党の全ての実務を取り仕切り、孫文の右腕と目されるようになった。そして蔣は陳とともに入党して孫文に絶対の忠誠を誓った。まもなく、蔣介石は孫文に命じられて満州に向かい、現地の革命派軍人と交渉し、反袁世凱闘争と南方への軍事的進出を企てたが、これは情勢が許さず、不調に終わった。7月28日に第一次世界大戦が起きると、蔣介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった。孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、蔣介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。
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