第二霧社事件と川中島遷移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 17:32 UTC 版)
「霧社事件」の記事における「第二霧社事件と川中島遷移」の解説
1931年(昭和6年)4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者(保護蕃と呼ばれた)をタウツア社(タウツア社はセデック族と対立しており、味方蕃として日本に協力した)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。これを第二霧社事件という。 霧社事件の後始末で警察が味方蕃から銃器を回収する寸前の出来事であったが、当時の警察官から、警察がタウツア社に襲撃を唆したとの証言がなされている。タウツア社への処罰はなされず、逆に蜂起部族の土地を与えられることとなった。 1931年(昭和6年)5月6日、最終的に生存したセデック族保護蕃282人は北港渓中流域の川中島(現在の清流部落(中国語版))と呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者ら家族は警察からの指導のもとに生活した。強制移住後も蜂起参加者への警察の取調や投獄など責任追及は続いた。10月には帰順式と銘打って住民を集め、事件関係者と認定した23人を逮捕。反乱に与しなかった霧社セデック族各社に対しても「反乱協力者」として投獄される例もあった。こうして最終的に蜂起有責者として38名が逮捕投獄された。当初警察はこれらを毒殺により処刑しようとしたが担当医師から毒薬注射を拒絶された。38名は留置処分となったが、逃亡を図り殺害された1名のほか全員が1932年(昭和7年)3月までに留置中に獄死した。 川中島への移住者には当局からの援助があったものの、労働力の不足やマラリアに苦しめられ、移住から1年で住民は210人まで減り、2年後には人口が3分の2まで減ったという。ただしその後は持ち直した。
※この「第二霧社事件と川中島遷移」の解説は、「霧社事件」の解説の一部です。
「第二霧社事件と川中島遷移」を含む「霧社事件」の記事については、「霧社事件」の概要を参照ください。
- 第二霧社事件と川中島遷移のページへのリンク