第七次攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 10:20 UTC 版)
4月7日に日本の連合艦隊司令部は第七次攻撃を発令した。その作戦案は、第四・五駆逐隊と第十四艇隊および蛟龍丸から成る部隊が第二駆逐隊の護衛の下で旅順港口付近へ機雷を隠密敷設するとともに、第三戦隊(装甲巡洋艦2隻で増強)がロシア艦隊主力の誘致を図り、第一戦隊が誘い出されたロシア艦隊を攻撃するという内容であった。悪天候のため作戦は順延され、4月12日午後5時40分に機雷敷設部隊は旅順港口へ向けて出撃した。同日午後11時から13日0時30分まで、敷設部隊は各艦船や駆逐艦村雨に曳航された団平船に積まれた機雷計44個を港口外へ敷設した。この間、雨による視界不良によりロシア側から発見されることはなかった。13日の早朝、敷設援護任務の第二駆逐隊と哨戒中のロシア駆逐艦ストラーシヌイ(Страшный)が交戦したのをきっかけに、ロシア巡洋艦バヤーンが救援のため湾外へ出撃し、日本の第三戦隊と旅順の湾口で砲戦となった。日本艦隊を追撃すべくロシア側はマカロフ中将指揮のもとに戦艦ペトロパヴロフスク他、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻の艦隊主力が出撃した。退避する第三戦隊よりの電報を受けて日本の第一戦隊が救援に駆けつけたが、ロシア艦隊はこれを見て反転し、陸上砲台の射程内に日本艦隊を誘う動きを見せた。この時、10時32分ペトロパヴロフスクおよび続航する戦艦ポベーダが共に触雷した。ロシア側はこれを潜水艇の攻撃と誤認して海面を乱射した。被害を受けたペトロパヴロフスクは砲弾と魚雷の誘爆に加えてボイラーが爆発したことにより沈没し、座乗のマカロフ中将も戦死した。 4月14日、マカロフの後任指揮官として極東総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフ大将が戦艦セヴァストーポリに着任して直接指揮を執ったが、以後日本艦隊の攻撃があっても積極的な反撃を行わなくなった。更に日本陸軍が塩奥襟襖付近に上陸したことを5月4日に知ったアレクセーエフは連絡を絶たれることを恐れて奉天へ脱出し、艦隊の指揮をウィットゲフト少将に任せた。
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