第八次攻撃以後の海上戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 10:20 UTC 版)
「旅順口攻撃」の記事における「第八次攻撃以後の海上戦闘」の解説
5月2日の夜には閉塞船12隻を投入した第三回旅順口閉塞作戦が実施されたが、閉塞には成功しなかった。 詳細は「旅順港閉塞作戦」を参照 日本海軍は、第七次攻撃で機雷が効果を発揮したことから、機雷作戦の拡大を決めた。同年8月にかけて19回にわたり仮装砲艦による機雷敷設を行ったほか、同年6月から12月までは艦載水雷艇も投入し、ダミーを含め計1703個の機雷を旅順港口から約9キロメートルまでの一帯へ敷設した。 ロシア側も機雷による作戦を展開した。5月5日、旅順口の監視を続ける日本艦隊の航路に対し、ウィットゲフト少将は敷設艦アムールによる機雷敷設を実施した。これにより15日の午前11時10分に老鉄山沖で八島と初瀬が触雷沈没した。日本側は八島の沈没のみ発表し、初瀬の沈没は翌1905年5月末まで伏せられた。この前後には日本側の被害が続出していた。14日には水雷艇四十八号と宮古が触雷して沈没、15日1時30分に旅順沖で吉野が春日に衝突されて沈没、16日には龍田が座礁、17日には事故で大島、触雷で暁を失った。 6月23日、旅順艦隊がウラジオストックへ向けて一旦出航するも、すぐに引き返した。
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