蛟龍丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/16 07:41 UTC 版)
蛟龍丸(こうりゅうまる)は、1903年に進水した日本の貨客船である。日露戦争中に日本海軍により旅順口攻撃のため機雷敷設艦として使用され、戦艦「ペトロパブロフスク」の撃沈に関与した。日露戦争後は各種商船として35年以上使用された。
注釈
- ^ 流し式機械水雷落下装置とは、自動繋維式機雷を敷設するための細長い木製の架台で、日露戦争開戦後に連合艦隊により新規開発された。開戦前から研究されていた軌道式の敷設装置に比べると、落下装置1基につき1個の機雷しか敷設できないため多数の作業員を要するが、短時間での敷設に適していた[8]。
- ^ この点、元海上自衛隊海将補の堤明夫は、触雷地点を根拠に、「ペトロパブロフスク」を撃沈したのは「蛟龍丸」ではなく第4駆逐隊の敷設した機雷だと推定している[12]。
出典
- ^ a b c “なつかしい日本の汽船 蛟龍丸”. 長澤文雄. 2023年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『極秘 明治三十七八年海戦史 第六部』巻十四、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C05110135700、53-54枚目。
- ^ a b c d e f g h i j k 運輸通信省海運総局(編) 『昭和十四年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』 運輸通信省海運総局、1939年、内地在籍船の部1233頁、JACAR Ref.C08050075400、画像48枚目。
- ^ a b 逓信省管船局(編) 『大正六年 日本船名録』 帝国海事協会、1917年、148頁。
- ^ 木俣(2002年)、136頁。
- ^ a b c 『極秘 明治三十七八年海戦史 第六部』巻十四、155頁および付図、JACAR Ref.C05110135700、42-43枚目。
- ^ a b 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、182-183頁、JACAR Ref.C05110116600、画像1枚目。
- ^ 海軍軍令部(編) 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部 施設』巻八、210-212頁および付図、JACAR Ref.C05110115800、画像43-50枚目。
- ^ 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、110-111頁、JACAR Ref.C05110116500、画像13枚目。
- ^ a b 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、113-115頁、JACAR Ref.C05110116500、画像14-15枚目。
- ^ 海軍軍令部(編) 『極秘 明治三十七八年海戦史 第一部 戦記』巻四、48-49頁、JACAR Ref.C05110041400、画像12枚目。
- ^ 桜と錨(堤明夫) 「第3話 日露戦争期の機雷の話し:“ペトロパブロフスク” 撃沈 (後編)」『桜と錨の砲術学校』(2012年12月16日閲覧)
- ^ 木俣(2002年)、139頁。
- ^ 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、102-103頁、JACAR Ref.C05110116500、画像2枚目。
- ^ 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、197頁、JACAR Ref.C05110116600、画像9枚目。
- ^ 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、185-186頁、JACAR Ref.C05110116600、画像2-3枚目。
- ^ 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、195頁、JACAR Ref.C05110116600、画像7枚目。
- ^ 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、208-209頁、JACAR Ref.C05110116600、画像15枚目。
- ^ 『極秘 明治三十七八年海戦史 第五部』巻九、234頁、JACAR Ref.C05110116600、画像31枚目。
- ^ 逓信省管船局(編) 『大正七年 日本船名録』 帝国海事協会、1916年、156頁。
- ^ 波津久生 「北海道記(11)鉄道貨物激増」『中外商業新報』 1916年6月14日。
- ^ 辛在卿 「<君が代丸>についての歴史的考察」『京都創成大学紀要』7号、成美大学、2007年、25頁。
- ^ a b 前田亀造(編) 『蕪嶋神社 創建七百年記念誌』 蕪嶋神社創建七百年奉祝奉賛会、1996年。
- ^ 「蛟龍丸査証問題」『極東露領沿岸ニ於ケル漁業関係雑件 / 蘇官憲ノ圧迫及漁船拿捕関係』第10巻、JACAR Ref.B09042052200
- ^ 木俣(2002年)、140-141頁。
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