貨物船建造の経緯とは? わかりやすく解説

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貨物船建造の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/07 14:24 UTC 版)

白神丸」の記事における「貨物船建造の経緯」の解説

1908年明治41年3月開設帝国鉄道庁国鉄青函連絡船は、開設当初先発日本郵船と2社競合で、旅客はたちまち高速新造比羅夫丸型2隻で運航される帝国鉄道庁連絡船流れたが、貨物多く依然日本郵船残り1909年明治42年)度の鉄道院帝国鉄道庁1908年明治41年12月5日以って鉄道院改組連絡船貨物輸送量は2万421トンに留まった。しかし1910年明治43年3月10日日本郵船の同航路からの撤退後は、それらの貨物鉄道院連絡船転移し1910年明治43年)度の貨物輸送量は72625トン3.5倍に急増その4年後の1914年大正3年)度には北海道内開拓進展鉄道網拡充もあり、154716トンへと更に倍増していた。 鉄道院では1910年明治43年1月通年2往復運航のため、義勇うめが香丸(3,022総トン)を傭船し、同船解傭1911年明治44年1月には、その後継として会下山丸(えげさんまる)(1,462総トン)を傭船し、比羅夫丸型2隻と合わせ、3隻体制維持した。更に、阪鶴鉄道発注し、同鉄道国有化後1908年明治41年6月竣工後は山陰沿岸を行く舞鶴-境 間航路運航され第二阪鶴丸(864.9総トン)を、1912年明治45年3月の同航路廃止後関釜航路での使用経て同年6月青函航路転入させ4隻目とし、同船転出1914年大正3年7月からは、万成源丸(886.94総トン)を傭船して4隻体制維持し、これら傭船転属船を貨物便に充当し増加する貨物輸送かろうじて対応していた。 1916年大正5年3月には、会下山丸と万成源丸解傭し、生玉丸(856.02総トン)を傭船し、4月には泰辰丸(695.81総トン)を2週間傭船し、更に同月関釜航路傭船中の、戦時には病院船として使う日本赤十字社の弘済丸(2,589.86総トン)を会下山丸の後継として青函航路へ転傭し、同年6月には蛟龍丸(701.91総トン)を傭船し、5隻体制とした。 しかし、1914年大正3年7月第一次世界大戦 勃発は、その後大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物鉄道への転移もたらし鉄道連絡船航路である青函航路貨物輸送量も、1916年大正5年)度からの増加それ以前にも増して著しく、翌1917年大正6年)度には361259トンと、3年間で2.3倍にも達した。この船腹不足は、多く傭船頼っていた当時青函航路にとっても深刻で、傭船料の高騰傭船難、更に荷役料の高騰もあり、抜本的対策求められた。 1917年大正6年3月末には生玉丸を解傭して、同年4月より万成源丸再度傭船して5隻体制維持したが、この急増する貨物には追い付けず、6隻目として、第八大運丸(588.87総トン)、第三共栄丸(687.00総トン)、羅州丸(2,340総トン)、甲辰丸(709.22総トン)、第十小野丸(685.23総トン)を翌1918年大正7年10月まで、短期間傭船または助勤で綱渡り状態つないではみたが、1918年大正7年4月からは下り貨物発送制限を行う等、輸送力不足は決定的で、同年以降滞貨の山を造る混乱状態に陥ってしまった。 当時の同航路行われていた一般型貨物船での沖繋りによるハシケ荷役では、積替え回数多く天候にも左右され、この急増する貨物輸送を到底円滑に遂行できないばかりか長時間荷役による船の運航効率悪さと、旅客定員絶対的な不足もあり、旅客輸送にも支障きたしていた。 このため鉄道院は、小規模ながら1911年明治44年10月から 関門海峡を渡る関森航路下関-小森江)での貨車ハシケ1919年大正8年8月1日からは自航式貨車渡船第一関門丸第二関門丸併用)による「貨車航送」の実績良好であったことから、この打開策として、1919年大正8年)、比羅夫丸型の約2倍の大きさ客船船内軌道敷設し貨物積載状態の貨車積み込んで運ぶ「車両航送」の導入決定した。しかし、この決定は、車載客船建造のほか、貨車積卸しできる専用岸壁建設と、本州北海道間の鉄道車両連結器統一を行う必要があり、すぐ実現できる計画ではなかった。 まずは目前貨物輸送力不足解消のため、鉄道院安定して運航できる自前一般型貨物船建造踏み切った。しかし、当時日本鉄鋼自給能力未だ低く第一次世界大戦主戦場となったヨーロッパからの鉄材輸入途絶と、1917年大正6年4月アメリカ合衆国参戦後、同年8月から同国実施した対日鉄材輸出禁止による極端な鉄材不足の中、やむなく木造貨物船建造となり、1917年大正6年11月12月白神丸竜飛丸建造が、この年から新造建造本格参入したばかりの横浜船渠着手され、翌1918年大正7年6月18日10月16日就航した

※この「貨物船建造の経緯」の解説は、「白神丸」の解説の一部です。
「貨物船建造の経緯」を含む「白神丸」の記事については、「白神丸」の概要を参照ください。

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