貨物船建造の経緯
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1908年(明治41年)3月の開設の帝国鉄道庁(国鉄)青函連絡船は、開設当初は先発の日本郵船と2社競合で、旅客はたちまち高速新造船比羅夫丸型2隻で運航される帝国鉄道庁連絡船に流れたが、貨物の多くは依然日本郵船に残り、1909年(明治42年)度の鉄道院(帝国鉄道庁は1908年(明治41年)12月5日を以って鉄道院に改組)連絡船の貨物輸送量は2万421トンに留まった。しかし1910年(明治43年)3月10日の日本郵船の同航路からの撤退後は、それらの貨物も鉄道院連絡船へ転移し、1910年(明治43年)度の貨物輸送量は7万2625トンと3.5倍に急増、その4年後の1914年(大正3年)度には北海道内の開拓の進展と鉄道網の拡充もあり、15万4716トンへと更に倍増していた。 鉄道院では1910年(明治43年)1月、通年2往復運航のため、義勇艦うめが香丸(3,022総トン)を傭船し、同船解傭の1911年(明治44年)1月には、その後継として会下山丸(えげさんまる)(1,462総トン)を傭船し、比羅夫丸型2隻と合わせ、3隻体制を維持した。更に、阪鶴鉄道が発注し、同鉄道国有化後の1908年(明治41年)6月竣工後は山陰沿岸を行く舞鶴-境 間航路で運航された第二阪鶴丸(864.9総トン)を、1912年(明治45年)3月の同航路廃止後、関釜航路での使用を経て、同年6月青函航路へ転入させ4隻目とし、同船転出の1914年(大正3年)7月からは、万成源丸(886.94総トン)を傭船して4隻体制を維持し、これら傭船・転属船を貨物便に充当して増加する貨物輸送にかろうじて対応していた。 1916年(大正5年)3月には、会下山丸と万成源丸を解傭し、生玉丸(856.02総トン)を傭船し、4月には泰辰丸(695.81総トン)を2週間傭船し、更に同月、関釜航路で傭船中の、戦時には病院船として使う日本赤十字社の弘済丸(2,589.86総トン)を会下山丸の後継として青函航路へ転傭し、同年6月には蛟龍丸(701.91総トン)を傭船し、5隻体制とした。 しかし、1914年(大正3年)7月の第一次世界大戦 勃発は、その後の大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物の鉄道への転移をもたらし、鉄道連絡船航路である青函航路の貨物輸送量も、1916年(大正5年)度からの増加はそれ以前にも増して著しく、翌1917年(大正6年)度には36万1259トンと、3年間で2.3倍にも達した。この船腹不足は、多くの傭船に頼っていた当時の青函航路にとっても深刻で、傭船料の高騰と傭船難、更に荷役料の高騰もあり、抜本的対策が求められた。 1917年(大正6年)3月末には生玉丸を解傭して、同年4月より万成源丸を再度傭船して5隻体制を維持したが、この急増する貨物には追い付けず、6隻目として、第八大運丸(588.87総トン)、第三共栄丸(687.00総トン)、羅州丸(2,340総トン)、甲辰丸(709.22総トン)、第十二小野丸(685.23総トン)を翌1918年(大正7年)10月まで、短期間の傭船または助勤で綱渡り状態でつないではみたが、1918年(大正7年)4月からは下り貨物に発送制限を行う等、輸送力不足は決定的で、同年以降滞貨の山を造る混乱状態に陥ってしまった。 当時の同航路で行われていた一般型貨物船での沖繋りによるハシケ荷役では、積替え回数が多く天候にも左右され、この急増する貨物輸送を到底円滑に遂行できないばかりか、長時間荷役による船の運航効率の悪さと、旅客定員の絶対的な不足もあり、旅客輸送にも支障をきたしていた。 このため、鉄道院は、小規模ながら1911年(明治44年)10月から 関門海峡を渡る関森航路(下関-小森江)での貨車ハシケ(1919年(大正8年)8月1日からは自航式貨車渡船第一関門丸・第二関門丸も併用)による「貨車航送」の実績が良好であったことから、この打開策として、1919年(大正8年)、比羅夫丸型の約2倍の大きさの客船の船内に軌道を敷設し、貨物積載状態の貨車を積み込んで運ぶ「車両航送」の導入を決定した。しかし、この決定は、車載客船建造のほか、貨車を積卸しできる専用岸壁建設と、本州、北海道間の鉄道車両の連結器統一を行う必要があり、すぐ実現できる計画ではなかった。 まずは目前の貨物輸送力不足解消のため、鉄道院は安定して運航できる自前の一般型貨物船建造に踏み切った。しかし、当時の日本の鉄鋼自給能力は未だは低く、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパからの鉄材輸入途絶と、1917年(大正6年)4月のアメリカ合衆国参戦後、同年8月から同国が実施した対日鉄材輸出禁止による極端な鉄材不足の中、やむなく木造貨物船建造となり、1917年(大正6年)11月と12月に 白神丸と竜飛丸の建造が、この年から新造船建造に本格参入したばかりの横浜船渠で着手され、翌1918年(大正7年)6月18日と10月16日に就航した。
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