専用岸壁建設
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翔鳳丸就航直前の函館港には、1910年(明治43年)12月15日完成の木造桟橋があり、桟橋上には、 1915年(大正4年)6月15日開設の函館桟橋乗降場があって、連絡船接続列車が発着していた。この木造桟橋には当時、西面と北面の2バースがあった。車両航送を開始するため、この桟橋のすぐ南側に、1922年(大正11年)8月10日から、鉄筋コンクリート造の専用岸壁2バースを有する若松埠頭が築造中で、木造桟橋は撤去される予定であった。 1924年(大正13年)4月25日から、この木造桟橋の西面バースを使用停止とし、一部の客貨便は沖繋りに戻し、5月1日には函館桟橋乗降場も閉鎖された。同年10月1日からは、築造中の若松埠頭先端寄りの函館第2岸壁(当時は函館第1岸壁と呼称)が一部完成したため、使用開始し、木造桟橋は使用廃止された。10月4日には、若松埠頭上に建設された鉄筋コンクリート3階建ての連絡船待合室1階に完成した1面2線の新しい函館桟橋駅も使用開始された。翌1925年(大正14年)5月20日には、同岸壁の可動橋が竣工したため、5月21日より翔鳳丸型による試験車両航送が開始され、8月1日より正式に車両航送が開始された。また6月1日からは手前側の函館第1岸壁(当時は函館第2岸壁と呼称)の使用も開始されたが、可動橋使用は9月5日からで、10月14日を以って若松埠頭築造工事は完了した。 しかし、車両航送開始後より急増した函館駅構内の貨車入換作業は、1928年(昭和3年)9月10日の長輪線全通や、1930年(昭和5年)10月25日の上磯線の木古内への延伸開業でさらに拍車がかかり、これに対応する函館駅構内配線の全面改良工事が、1928年(昭和3年)10月より開始された。その一環として、1930年(昭和5年)11月11日には、函館桟橋駅ホームが函館駅本屋の跨線橋まで延長され、函館駅第2乗降場と呼称される長いホームとなった。これに先立つ同年10月1日から函館桟橋駅発着列車は廃止され、全て函館駅発着となった。 一方青森側は、既に青森県が国庫補助を受け、1915年(大正4年)6月以来工事を進めていた大規模築港工事である青森港第1期修築工事の付帯工事として、青森第2岸壁(当時は青森第1岸壁と呼称)の築造工事が、青森県への委託工事として1920年(大正9年)4月1日に起工、1923年(大正12年)12月15日からは一部で先行使用が開始され、ここに青森側での旅客便、客貨便の直接着岸が実現した。1924年(大正13年)3月31日には通常岸壁として竣工し、青森県から引き渡しを受けた後、車載客船の船尾を係留するポケット部分と可動橋を追加建設し、1925年(大正14年)4月25日竣工し、同年5月21日からの試験車両航送に使われた。なお青森第1岸壁(当時は青森第2岸壁と呼称)は、1923年(大正12年)12月まで青函連絡船の旅客用ハシケ岸壁として使われた第2船入澗を、さらに南西に掘り込む形で築造され、1928年(昭和3年)8月11日に岸壁完成し、可動橋は同年9月20日竣工、10月から使用された。
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