大戦景気による混乱と車両航送導入決定
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「比羅夫丸」の記事における「大戦景気による混乱と車両航送導入決定」の解説
1914年(大正3年)7月勃発の第一次世界大戦は、その後の大戦景気と、世界的な船腹不足による海運貨物の鉄道への転移をもたらし、鉄道連絡船航路であった青函航路の貨物輸送量も、1916年(大正5年)度からは一層激しい増加を示し、翌1917年(大正6年)度には36万1259トンと、3年間で2.3倍にも達し、同年以降滞貨の山を築く混乱状態に陥ってしまった。 一方順調に伸びていた旅客輸送人員は、1913年(大正2年)からの不況のため、1914年(大正3年)度は前年割れの28万8964名となったものの、第一次世界大戦勃発後の大戦景気により、1916年(大正5年)度からは著しい増加に転じ、1917年(大正6年)度からは移民ならびに出稼ぎ労働者全員が青函連絡船利用となったこともあり49万4827名へと急増した。 1916年(大正5年)3月には、会下山丸と万成源丸を解傭し、生玉丸(856.02総トン)を傭船し、4月には泰辰丸(695.81総トン)を2週間傭船し、更に関釜航路で傭船中で、より収容能力が大きく、戦時には病院船として使う日本赤十字社の弘済丸(2,589.86総トン)を会下山丸の後継として青函航路へ転傭し、会下山丸同様、比羅夫丸・田村丸休航時の旅客便 1便・2便・3便・4便への充当と、通常は甲便・乙便として主に貨物便として使用し、同年6月には蛟龍丸(701.91総トン)を傭船した。 1917年(大正6年)2月には貨物便の丙便・丁便を設定して最大4往復とし、同年3月には生玉丸を解傭し、同年4月には万成源丸を再度傭船して、基本5隻体制を維持し、6隻目の船として、12月には3週間、第八大運丸(588.87総トン)を、12月から翌1918年(大正7年)1月にかけての1ヵ月間 関釜航路で傭船していた第三共栄丸(687.00総トン)を転傭し、更に1918年(大正7年)2月から4月まで、本来は冬期休航の逓信省航路標識視察船羅州丸(2,340総トン)が関釜航路で傭船されていたのを、1ヵ月余り貨物便に助勤させ、同年4月から5月にかけ甲辰丸(709.22総トン)を50日余り、6月から10月まで第十二小野丸(685.23総トン)を3ヵ月余り傭船し、貨物輸送力不足を補ったが、折からの船腹不足による傭船困難と傭船料高騰の中、貨物の発送制限、停止の措置も取らざるを得なかった。1917年(大正6年)8月からは甲便・乙便の貨物船 万成源丸に87名、蛟龍丸に63名の定員をとり3等旅客を乗船させ、急激な旅客増加に対応した。このような中、同年10月には、弘済丸が事故で休航したため、関釜連絡船対馬丸(初代)(1,679総トン)を16日間助勤させている。更に1918年(大正7年)7月には5便・6便を設定し、7月から9月までは旅客便として、漁民・移民輸送期には客貨便として、その他の季節は貨物便として運航し、定期旅客便2往復(1便・2便(4時間30分)3便・4便(5時間))、客貨便1往復(5便(6時間15分)・6便(6時間10分))、貨物便1往復(甲便・乙便(9時間))、臨時貨物便1往復(丙便・丁便(9時間))の5往復体制とした。これら5往復中、比羅夫丸・田村丸で運航する旅客便は高速で貨物積載量も相対的に少ないため荷役時間も短く、2船2往復できたが、その他傭船便は低速で貨物積載量も多く、長時間の荷役を日中に行う必要上、運航は夜行のみ1船片道となり、速力の異る、追い越しを伴う厳しい深夜運航が行われていた。 このように急増する客貨を前に、積替え回数が多く天候にも左右される一般型船舶の沖繋りによるハシケ荷役では、円滑な貨物輸送は到底望めないばかりか、長時間荷役による運航効率の悪さと、旅客定員の絶対的な不足もあり、旅客輸送にも支障をきたしていた。この打開策として、鉄道院は1919年(大正8年)、比羅夫丸型の約2倍の大きさの客船の船内に軌道を敷設し、貨物積載状態の貨車を積み込んで運ぶ「車両航送」の導入を決定した。しかし、この、“2階級特進”の決定は、車載客船建造のほか、貨車を積卸しできる専用岸壁建設と、本州、北海道間の鉄道車両の連結器統一を行う必要があり、すぐ実現できる計画ではなかった。
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