大戦景気下の岐阜電気
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:50 UTC 版)
第一次世界大戦終結直後にあたる1918年11月末時点における岐阜電気の供給成績は、取付電灯数7万4444灯・電力供給3,451 kWであり、4年前に比べて電灯数は2倍近い、電力供給は3倍近い増加である。需要増加は大戦景気の影響された工場の新設・動力変更、灯油価格高騰に伴う電灯利用の増加によるものであった。 この間の1916年、水力発電設備に対する予備として残されていた今川町火力発電所が揖斐川電力・名古屋電灯からの受電開始に伴って廃止となる。その一方で新発電所建設も着手され、翌1917年3月粕川に3番目の水力発電所となる春日発電所が着工された。ところが春日発電所は物価騰貴・労働力不足のため工期延長を余儀なくされ、1918年下期末には供給余力が失われて一般電動力の増設を停止せざるを得なくなった。また岐阜電気では季節的に発生する不定時電力の受け皿として安八郡北杭瀬村河間(現・大垣市河間町)に工場を構えて兼営事業としてカーバイド製造を試みたが、1918年8月に工場の操業を開始したものの余剰電力がほとんどなく予期の成績を挙げるに至らなかった。 1920年(大正9年)1月、春日発電所が出力1,800 kWで運転を開始した。同年末時点における岐阜電気の電源は、自社発電所3か所・総出力2,950 kWと揖斐川電化・名古屋電灯からの受電各1,000 kWからなる。これに対し11月末時点での供給成績は取付電灯数10万9016灯・電力供給5,628 kWであり、電灯・電力ともに2年前に比して約1.5倍増となっている。新発電所が戦線に加わったものの、その発電力は販売契約済みの需要に充当されたため、電源増強の必要性が消えることはなかった。そこで岐阜電気では長良川に水利権を取得して発電所建設の準備に着手する。加えて会社自身が「岐阜興業株式会社」の発起人に加入し、同社名義で飛騨川・馬瀬川の水利権を出願して1920年3月・4月にその許可を得た。岐阜興業は大手製紙会社の王子製紙と提携して企画していた会社で、岐阜電気への電力供給と化学工業の経営を起業目的とする。 経営面を見ると、大戦期とその後の供給増によって事業収入は着実に増加したものの、受電が増加するにつれて購入電力料が負担となり、利益率はほとんど一定であった。経営は消極的であり、年率12パーセントの高い配当を維持してはいるが払込資本金利益率にほぼ等しい配当率であり、利益の社内積立は乏しい。この時期の増資は、1917年3月決議の150万円増資、1919年(大正8年)12月決議の300万円増資があり、資本金は設立時の20倍にあたる600万円に達した。払込資本金額が着実に増加したため長期負債は少ない。
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