大戦景気期の電力不足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:20 UTC 版)
「金沢電気瓦斯」の記事における「大戦景気期の電力不足」の解説
第一次世界大戦勃発後の1915年(大正4年)7月、金沢電気瓦斯は福岡第一発電所と同じ河内村内で手取川支流直海谷川を利用する福岡第二発電所の建設を決定した。工期は1年半以内の予定であったが、スイスからの水車輸送が大戦の影響で遅延し、発電所の運転開始は1918年(大正7年)1月となった。この間、大戦景気により電灯・電力ともに需要が増加しており、発電力3,300キロワットに対し電灯数は1917年時点で8万灯目前、電力供給は約1,700キロワットという規模になっていた。電灯数増加の一因には1916年10月の料金改定があり、10パーセント以上の値下げで周辺都市と同水準の料金となったことで、職工不足で取付工事が遅れるほどの申込みがあったという。また他の電気事業者への電力供給は小松電気のほか能登半島の七尾電気(後の能登電気)も加わり、福岡第二発電所完成後の1918年3月には県南部の大聖寺川水電に対しても開始されている。 需要拡大の一方、新電源の福岡第二発電所は完成が遅れた上、認可出力1,300キロワットに対し実際には平均750キロワット程度の発電に留まった。そのため1918年下期には発電余力がなくなって新規の動力需要に応じられなくなるという事態に陥る。このころから金沢では動力使用権の転売がみられるようになり、ピーク時には1馬力あたり500円余りのプレミアムが付いて売買されていたという。深刻化する電力不足対策として会社では1919年11月、昼間の動力需要家に対してそれまで認めていた午後5時(夜間電灯の供給開始時間)から7時までの供給を取りやめる方針を固めた。 こうした供給不足について、会社では1916年の段階で供給不足を予見し、1917年1月には資本金を400万円へ倍額増資した上で、福岡第一発電所よりも上流、石川郡吉野谷村(現・白山市)での吉野発電所建設を決定していた。しかしながら水利権取得が競願者があって1917年11月に遅れ、運転開始も3年半後の1921年(大正10年)3月となった。工事中、金沢紡績(後の大和紡績金沢工場)および市街電車を建設中の金沢電気軌道と供給契約を締結したことから、早急に電源を確保する必要に迫られ、手取川支流瀬波川を利用する市原発電所を1920年(大正9年)1月に完成させた。だが吉野発電所の出力4,600キロワットに対し市原発電所は出力709キロワットに過ぎず、金沢紡績・金沢電気軌道への供給電力835キロワットをも下回ることから、電力不足は結局吉野発電所の完成まで継続された。 大戦景気の影響はガス事業にも及んでおり、需要増加のため1920年9月に日産能力が17万立方フィートへと増強された。大戦景気は原料石炭価格の高騰という形でガス事業に悪影響を与え、他の事業者ではガス料金の高騰がみられたが、金沢電気瓦斯では県や市の了解が得られず、1913年の値下げ改定価格から引き上げることができなかった。 1920年末時点における金沢電気瓦斯の供給実績は、電灯需要家数4万7,509戸・取付灯数12万2,077灯、電力供給5,242キロワット、ガス口数8,266個であった。
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