市営化と会社解散
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石川県外の株主が過半を占める金沢電気瓦斯の経営については、以前から金沢市民より厳しい目が向けられていたが、大戦景気期の電力不足でその傾向が一層強められた。特に小松や能登など遠隔地の電力会社へ送電する一方で金沢市周辺への供給が十分でないことへの不満は大きく、会社経営に対して行政指導を求める意見が噴出した。1918年3月、金沢市会では電柱・ガス管の公道利用について会社に報償金納付を求める報償契約案が議題となる。市会は利益に応じた報償金納付を求めたが、会社側は定額制を強く主張したため非難する声が高まり、定額制案は市会で全会一致にて否決された。その後山森隆市長が上京して筆頭株主の前田家や社長の小池靖一と交渉し、結局8月市の主張に沿った報償契約が締結された。 1920年に発生した戦後恐慌は、年率1割2分の配当を継続したという意味では会社に無関係であったが、その影響で株主からの払込金徴収が滞り、吉野発電所建設費に充てるため1920年7月に50万円を徴収する計画は30万円(払込資本金300万円→330万円)に減額せざるを得なくなった。こうした状況下で、手取川で大規模電源開発を手掛ける福澤桃介系の白山水力と金沢電気瓦斯の合併話を察知した金沢市長飯尾次郎三郎(1919年5月就任)は、事業が他県資本に奪われると予期せぬ不利益があるとの認識から金沢電気瓦斯の事業市営化に乗り出す。1920年7月10日、飯尾は社長の小池に対し書面で市営化を申し入れる。すると会社側も恐慌の折であるため交渉に応ずる方針を固めた。 金沢市は会社に対し、電気事業市営化が先に実施されていた神戸市の事例に沿って、過去3年間の平均配当額の20倍にあたる金額、630万円を買収価格として提示した。一方、会社側は地方鉄道法の買収規定に沿った、過去3年間の平均利益の20倍にあたる935万円を譲渡価格として主張した。この意見の隔たりを埋めるべく、加越能郷友会の早川千吉郎や大株主である前田家・横山隆俊らが仲介に入り、その結果、買収価格を市が主張する金額とするが、原案の6分利付き市債交付による買収ではなく7分利付き90円替えの市債を交付する、という形で妥協が成立した。1921年(大正10年)5月27日、買収契約が締結され、6月14日に会社の株主総会および金沢市会において買収契約が可決された。 1921年10月1日、金沢電気瓦斯から金沢市に対する電気・ガス供給事業の引き継ぎが実施された。これをもって市営電気供給事業ならびに市営ガス供給事業が成立する。事業にあたる部署として金沢市電気局が組織された。同日付で市は額面価格939万4800円の市債を発行し、うち663万3700円を会社に交付している。この市営化に際し、金沢市外の郡部地域における電気供給事業は市営化の対象から外されていたため、これについては金沢電気軌道へと売却された。こうして金沢市ならびに金沢電気軌道へ事業を譲渡した金沢電気瓦斯は、1日付で解散した。
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