市営化 - 最盛期(1920年代 - 1960年代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 20:13 UTC 版)
「札幌市電」の記事における「市営化 - 最盛期(1920年代 - 1960年代)」の解説
1927年(昭和2年)12月1日に路面電車が市営化された際の総延長は16.3km、保有車両数は63両だった。その後も路線の拡充は続き、1931年(昭和6年)には鉄北線を除くすべての路線が全線開通した。第二次世界大戦中は節電のために停留場の統廃合や終電の繰り上げ、通学切符の最低距離制限、を行い、さらに乗務員不足を女子挺身隊で補った。戦後の1946年(昭和21年)冬には閑散路線を一時休止(山鼻西線の南19条 - 一中前と中島線の松竹座 - 中島公園、桑園線の桑園駅通 - 桑園駅前)したほか、進駐軍の将兵およびその家族が藻岩山でスキーを楽しむために、都心部と山鼻方面の間に専用電車が運行された。やがて復興が進むにつれて輸送需要も増大し、ボギー車の導入や単線区間の複線化が進められた。 1950年代後半から60年代初期にかけて、隣接自治体との合併や郊外の人口増加に伴い、路線網の拡大が計画されたが、実現したのは鉄北線の新琴似延伸のみだった。この当時新設が検討された路線には以下のようなものがあった。 中央市場通より琴似方面 鉄北線より分岐して北光方面 豊平線より分岐して菊水・上白石方面 一条線と北五条線を西15丁目通で短絡 豊平駅前より月寒方面月寒には陸軍病院が設置されていたことから軍の要請で路線敷設が計画されたことがある。 国鉄千歳線旧線に乗り入れて一条線または豊平線を延伸地下鉄東西線も、当初はこのルートで計画された。現在この区間はサイクリングロード(北海道道1148号札幌恵庭自転車道線)となっている。 1960年代に入ると輸送量の増加に対応するため、ラッシュ時のみ増結される親子電車や連接車を導入したが、一方で自動車の交通量も増加し、電車の運行に支障が出始めていた。このころ一部の系統で「婦人子供専用車」が運行されたが、朝晩わずか1往復ずつだったために利用しにくく、程なく廃止されている。 1963年12月には、朝夕の通勤輸送の便を図ることを目的に「急行電車」の運転が開始された(当初の運行時間は朝ラッシュ時の7時30分から9時30分の二時間、62ある停留所のうち28停留所を通過)。 乗車人員は1964年(昭和39年)度をピークとして減少に転じる。また、急行電車廃止の代替措置として1965年(昭和40年)に各路線で停留場の統廃合(62ある停留所のうち、9か所を統廃合、6停留所を移設)を行ったことにより停留場間の距離が広がり、逆に利便性が損なわれ、利用客の減少に拍車がかかったとも言われている。
※この「市営化 - 最盛期(1920年代 - 1960年代)」の解説は、「札幌市電」の解説の一部です。
「市営化 - 最盛期(1920年代 - 1960年代)」を含む「札幌市電」の記事については、「札幌市電」の概要を参照ください。
- 市営化 - 最盛期のページへのリンク