市営化とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 09:47 UTC 版)
1922年(大正11年)8月1日、名古屋電気鉄道市内線10路線を名古屋市が買収・市営化し名古屋市電気局(後の交通局)が引き継いだことで名古屋市電が成立した。これにより高岳線東新町 - 大曽根間3.609キロメートルは名古屋市電の路線の一つとなっている。ただしこの時点での正規の路線名は「大曽根線」であり、高岳線はその別名とされていた。名古屋市の資料によると、1917年末時点では東新町 - 大曽根間は「高岳線」であるが、1919年末時点では「大曽根線」に変わっている。市営化後、1923年末時点では再び「高岳線」と称する。 高岳線においては、市営化当初の1922年12月時点で、東新町 - 大曽根間の線内系統と東新町経由で栄町線名古屋駅前と大曽根を結ぶ系統の、合わせて2つの運転系統が設定されていた。翌1923年(大正12年)12月、高岳延長線開通に伴い東新町起点の線内系統は同線鶴舞公園方面への直通系統(当初の起点は御黒門線門前町停留場)に改められた。さらに1926年(大正15年)4月には赤塚で接続する山口町線(葵町線)との直通系統(当初の設定区間は岩井町線水主町 - 大曽根間)も出現した。 1940年以降は高岳線に接続する路線が相次いで建設され、1942年(昭和17年)6月に大曽根から先へ東大曽根まで大曽根線が、1944年(昭和19年)7月には上飯田まで御成通線がそれぞれ開通し、1949年(昭和24年)7月には途中の清水口から分岐する清水口延長線も開業している。これらの路線が開業した結果、高岳線には大曽根線・御成通線・清水口延長線と直通する運転系統が多数設定され、東片端線大津橋方面との直通系統も現れた(下記#運転系統参照)。なおこの間、太平洋戦争末期の1945年(昭和21年)3月27日より、空襲被害のため高岳延長線を含む鶴舞公園前 - 東新町 - 東片端間が長期の営業休止となった。再開は戦後の1946年(昭和21年)4月1日のことである。 高岳線の周辺路線には、上記に挙げた路線以外にも、1928年(昭和3年)3月、東区新出来町1丁目(高岳線山口町停留場は地内にある)から東へ古出来町まで1.267キロメートルにわたる「山口町延長線」の軌道敷設特許を名古屋市は得ていたが、この路線の建設は実現していない。
※この「市営化とその後」の解説は、「名古屋市電高岳線」の解説の一部です。
「市営化とその後」を含む「名古屋市電高岳線」の記事については、「名古屋市電高岳線」の概要を参照ください。
市営化とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 08:08 UTC 版)
1922年(大正11年)8月1日、名古屋電気鉄道市内線を名古屋市が買収・市営化し名古屋市電気局(後の交通局)が引き継いだことで名古屋市電が成立した。これに伴い栄町線は名古屋市電の路線となる。この段階での栄町線の路線長は、名古屋駅前停留場から千種停留場までの4.1783キロメートルであった。また市営化時点では、名古屋駅前(一部は堀内町線那古野町)を起点に、西裏・千種駅前や東新町経由で高岳線大曽根、栄町経由で熱田線熱田伝馬町へと至る系統が設定されていた。 1937年(昭和12年)2月1日、広小路通・笹島交差点北西角にあった名古屋駅が高架化され桜通の正面にあたる現在地へと移転した。移転に伴い、市電でも移転と同日付で市営化以来「名古屋駅前停留場」(初代)を称していた栄町線の起点停留場が笹島町停留場へと改称する。さらに4月にかけて新駅前へ乗り入れる笹島線などが整備されていった。また高架化されたことで鉄道線の西側に孤立していた市電中村線と栄町線が直結された。 太平洋戦争開戦後の1943年(昭和18年)1月17日、工員輸送強化を目的に多数の通過停留場を設定した特急電車の運転が開始された。特急運転時間は始発から7時までの間で、その間栄町線末端西裏 - 千種駅前間は運休とされた。さらに同年12月1日の系統改正で、同区間は廓内線(大津橋 - 市役所前間)とともに全面的に運転休止となった。半年後の1944年(昭和19年)6月19日には、休止中の西裏 - 千種駅前間は軌道が撤去された。同区間は戦後復旧することはなく、休止中のまま1963年(昭和38年)2月1日付で廃止されている。
※この「市営化とその後」の解説は、「名古屋市電栄町線」の解説の一部です。
「市営化とその後」を含む「名古屋市電栄町線」の記事については、「名古屋市電栄町線」の概要を参照ください。
市営化とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/24 08:14 UTC 版)
1922年(大正11年)8月1日、名古屋電気鉄道市内線10路線を名古屋市が買収・市営化し名古屋市電気局(後の交通局)が引き継いだことで名古屋市電が成立した。これにより新栄町 - 門前町間は名古屋市電の路線の一つとなったが、市営化段階では「御黒門線」の路線名はなく「公園線」もそれが指す区間が異なっていた(下記#公園線の区間について参照)。 市営化時、公園線・御黒門線では線内折返し(門前町 - 新栄町間)の運転系統と新栄町から先へ平田町経由にて行幸線明道橋(後の明道町)まで伸びる運転系統の2つが運転されていたが、「コ」の字型の後者の系統は門前町から西へ伸びる岩井町線などの開通に伴い1924年(大正13年)3月より名古屋駅前を発着する循環系統となった。この循環系統は以後太平洋戦争後の一時期を除いて1970年(昭和45年)まで運転が続くことになる。 また鶴舞公園から南へ伸びる東郊線(1923年開業)と直通する、岩井町線水主町 - 東郊線堀田(堀田駅前)間の運転系統が1928年(昭和3年)3月に新設されている。太平洋戦争後も東郊線直通系統が残っており、名古屋駅前と瑞穂区方面(堀田駅前や新瑞橋)を結ぶ系統が公園線を経由した(#運転系統参照)。
※この「市営化とその後」の解説は、「名古屋市電公園線」の解説の一部です。
「市営化とその後」を含む「名古屋市電公園線」の記事については、「名古屋市電公園線」の概要を参照ください。
市営化とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/27 15:51 UTC 版)
1922年(大正11年)8月1日、名古屋電気鉄道市内線を名古屋市が買収・市営化し名古屋市電気局(後の交通局)が引き継いだことで名古屋市電が成立した。これにより葵町線・山口町線は名古屋市電の路線となっている。 市営化後、1922年12月に運転系統の改訂が実施され、葵町線には行幸線明道橋(後の明道町)から平田町・新栄町を経て御黒門線門前町(後の大須)に至る系統、山口町線には線内で完結する平田町 - 赤塚間の系統が設定された。明道橋 - 門前町間の系統は路線延伸に伴い1924年(大正13年)3月より名古屋駅前を発着する循環系統となり、以後太平洋戦争後の一時期を除いて廃線まで運転が続けられた。また平田町 - 赤塚間折り返しの系統は1926年(大正15年)4月改正で葵町線・高岳線直通の系統に改められている(当初の設定区間は岩井町線水主町 - 大曽根間)。 1953年(昭和28年)12月30日、平田町連絡線(延長54メートル)が開業した。これに伴い東片端線・山口町線・高岳線という経路で運行される系統も出現した(下記#運転系統参照)。
※この「市営化とその後」の解説は、「名古屋市電葵町線」の解説の一部です。
「市営化とその後」を含む「名古屋市電葵町線」の記事については、「名古屋市電葵町線」の概要を参照ください。
市営化とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/27 15:47 UTC 版)
「名古屋市電上江川線」の記事における「市営化とその後」の解説
1922年(大正11年)8月1日、名古屋電気鉄道市内線を名古屋市が買収・市営化し名古屋市電気局(後の交通局)が引き継いだことで名古屋市電が成立した。これに伴い上江川線は名古屋市電の路線となっている。市営化当初、同年12月時点では浄心前 - 志摩町間には浄心前と下江川線船方などを結ぶ運転系統が設定されていた。1925年(大正14年)3月には浄心前停留場近くに電車車庫(浄心電車運輸事務所)が開設された。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月27日に戦災のため全線の営業が休止された。営業再開は終戦後で、1946年(昭和21年)9月21日よりまず明道町以南が、次いで翌1947年(昭和22年)8月5日より明道町 - 浄心町間がそれぞれ再開している。明道町以北の再開と同時に行われた系統改正では、上江川線には浄心町と下江川線船方を結ぶ運転系統が設定された。 1955年(昭和30年)10月、浄心町から北へ秩父通まで伸びる浄心延長線が開通し、同線と直通する運転系統が設定された(下記#運転系統参照)。
※この「市営化とその後」の解説は、「名古屋市電上江川線」の解説の一部です。
「市営化とその後」を含む「名古屋市電上江川線」の記事については、「名古屋市電上江川線」の概要を参照ください。
- 市営化とその後のページへのリンク