市営事業の動向:1930年代
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「金沢市営電気供給事業」の記事における「市営事業の動向:1930年代」の解説
需要増加に伴い、市では既設吉野第一発電所の放水を利用する吉野第二発電所の建設を立案、1927年(昭和2年)10月に起工し1930年(昭和5年)10月になって完成させた。総工費は45万7000円。出力は1,000キロワットで、非同期発電機やカプラン水車、自動式運転方法など当時の最新技術が取り入れられている。 続いて市原発電所の放水を常時吉野第一発電所へと流すという改良工事が1932年(昭和7年)6月に完成し、吉野第一発電所の出力が550キロワット増加した。また1939年(昭和14年)12月には福岡第一発電所の出力も1,360キロワット引き上げられており、これらにより市営発電所は計6か所・総出力1万3,190キロワットとなった。この間の1934年(昭和9年)7月11日、手取川大水害により、福岡第一発電所では床上浸水、福岡第二発電所は建屋全体が流出するという被害を受けた。水害の影響で市営発電所の総発電量は大きく落ち込むが、臨時受電を行い供給を継続した。 1939年度の段階で、キロワット時ベースの発電と受電の割合は3対1であった。受電量のうち多くを占めるのが石川電気からの受電である。同社は1935年7月に設立された高岡電灯(富山県)の傍系会社で、1937年(昭和12年)7月手取川に鶴来発電所(出力1,600キロワット)を建設、発生電力全部を市へ売電していた。それ以外では高岡電灯(北陸共同電気を合併)と日本海電気(中越水電を合併)からの受電が目立つ。 供給実績は1930年代を通じて着実に伸長した。電灯分野では洪水被災から3か月後の1934年10月に1か月にわたって増灯勧誘が大規模に実施され、1934年度に20万灯の大台を突破するに至った。1938年(昭和13年)3月末時点では電灯需要家数3万7709戸・取付灯数21万5275灯を数える。一方電力供給については、1940年(昭和15年)3月末時点で小口電力4,666キロワット、電熱その他1,592キロワット、大口電力1万5,725キロワットの合計2万1,983キロワットという規模に拡大した。最大の電力需要家はキロワット時ベースで大口供給の半分近くを占める日本電気冶金(後の日本電工)。それに金沢電気軌道・高岡電灯・小松電気の電気事業者3社が続いた。
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