市営事業の動向:1920年代
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「金沢市営電気供給事業」の記事における「市営事業の動向:1920年代」の解説
初期の市営事業には、渇水期の供給力不足という問題が存在した。少雨や積雪のため河川流量が減少する毎年8月・1月になると、水力発電に依存することから発電量が低下し、電灯が暗くなったのである。市では貯水池改良など安定供給に努めたものの、火力発電所設置といった抜本的な対策はコスト面から不可能であった。 そこで金沢には、豊富な水力資源を擁する富山県側から電力を受け入れる体制の整備が進んだ。まず金沢紡績(大和紡績の前身)が新工場を建設するにあたり、富山県の中越水電が県境を超えて工場まで送電線を新設、1925年(大正14年)2月より送電を始めた。続いて1924年5月に日本電力と石川県内で電気事業を行う7社が連合して設立した北陸共同電気が、1925年8月に日本電力からの電力を金沢方面へと流す送電線を完成させた。この北陸共同電気の出現により電力不足は解消され、さらに小松電気など周辺電力会社への送電を北陸共同電気が肩代わりしたため市は市内供給に専念できるようになった。 営業面では、1926年(大正15年)6月13日、下堤町に電気局の電灯器具陳列販売所が開業した。建設費3000円を投じて整備されたこの施設では、電灯照明などの宣伝、器具・機械の販売、照明に関する相談が行われた。市営化以来、電気局では増灯・増燭の勧誘に努め、電熱利用の分野では電気アイロンの普及を図っていた。その結果、1929年(昭和4年)3月末時点における供給成績は、電灯需要家数3万6302戸・16万4972灯、電動機用電力3799.75馬力(2,833キロワット)・その他電力9,971.4キロワットへと増加している。
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