秩父丸遭難事件とは? わかりやすく解説

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秩父丸遭難事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 00:29 UTC 版)

秩父丸 (蟹工船)」の記事における「秩父丸遭難事件」の解説

1926年4月17日、「秩父丸」はカニ漁を行うため函館港から出航千島列島東側沿って北上した同月26日温禰古丹島北の温禰古丹島海峡抜けてさらに北上し幌筵島志林規島の間の志海峡差し掛かったところ、強い南風吹き始めた機関不調重なって操船の自由を失った秩父丸」は、投錨して流され続け26日午後7時過ぎに幌筵島津崎付近東経15512分・北緯5016分)で岩礁乗り上げた午後8時20分に遭難無電発信し船員工員らを合わせた乗員277人は、救命ボート分乗して本船離れた一等機関士以下99人の集団北上して海浜にたどり着いたが、船長以下180人の集団行方不明となった最終的な死者182となった。ただし、乗員数を376人とする資料もある。 「秩父丸」の遭難無電受けて付近にいた「蛟龍丸」(日魯漁業運航船)が救助向かったが、悪天候のため引き返した。「第二富美丸」(日魯漁業運航船)も救助向かい27日海岸漂着した一等機関士らを発見して収容した日魯漁業は、「第二錦旗丸」と「浦塩丸」も30日までに捜索加えたまた、船主などから救助要請受けた日本海軍は、当初艦船の手配がつかない断っていたが、水産組合関係者からの海軍大臣対す直訴農林省通じての再要請を受け、29日午後になって大湊要港部駆逐艦太刀風出動決めた。「太刀風」は5月2日遭難現場到着し装載艇救助班を乗り込ませたが、船内人影発見できなかった。残っていた航泊日誌などの調査行ったうえで、もはや生存絶望的であると判断して捜索打ち切り帰投した。救助活動に関しては、付近にいた「英航丸」(北辰漁業)などが救難信号受信していたにもかかわらず救助に向かわなかったとして、批判受けた秩父丸雇傭主である北東貿易会社は、弔慰金として給与3か月相当と「九一金」と呼ばれた手当規定満額、さらに特別功労金支給発表した蟹工船漁業水産組合などによって義捐金募集行われ全国から15000円以上が集まった皇室からも内幣金1300円が贈られ北海道庁通じて配布された。しかし、労働農民党支援受けた漁業労働者らは、弔慰金義捐金などの配付速やかに行われていないとして抗議した船主今井に対しても、多額保険金受け取って着服したとの疑惑呈された。この点、『小樽新聞』(後に合併北海道新聞)の報道によると、義捐金等の配付の遅れの原因は、当時蟹工船においては一般に替玉乗船がしばしば見られ、そのため身元調査時間要し遺族詐称疑われる事例あったからである。なお、同年9月時点遺族判明の者が22名残っていた。保険金に関しても、捜索費用等の負担十数万円上り船主今井数万円を支出しているという。 プロレタリア文学作家小林多喜二は、本船遭難事故別の蟹工船博愛丸」での労働問題取材して1929年昭和4年)に小説蟹工船』を発表した作中には本船同名蟹工船秩父丸」が登場する同船遭難してSOS無電発信するが、十分に保険金をかけてあるなどとして他の蟹工船見殺しにされ、425人を乗せたまま沈没する筋書きとなっている。

※この「秩父丸遭難事件」の解説は、「秩父丸 (蟹工船)」の解説の一部です。
「秩父丸遭難事件」を含む「秩父丸 (蟹工船)」の記事については、「秩父丸 (蟹工船)」の概要を参照ください。

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