秩父党の嫡流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 16:17 UTC 版)
久寿2年(1155年)8月16日、大蔵合戦で祖父・秩父重隆が源義賢と共に源義平に討たれる。翌保元元年(1156年)7月、重頼は弟・師岡重経と共に保元の乱で源義朝の陣に従った。『保元物語』の白河殿に義朝が夜討する場面で、重頼・重経は「高家」として他の武士と区別して書かれている。 平治元年(1159年)12月、平治の乱で義朝が平清盛に敗れ、 永暦元年(1160年)3月、義朝の嫡男・源頼朝(14歳)は伊豆国に流罪となる。頼朝の乳母・比企尼は、武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允と共に京から領地へ下り、治承4年(1180年)の秋まで20年間頼朝に仕送りを続けた。比企氏の次女を娶った重頼は、同じく比企尼の婿である安達盛長・伊東祐清と共に頼朝を援助している。 永暦元年(1160年)、河越氏(能隆もしくは重頼)は、所領を後白河上皇に寄進し荘官となる。上皇はさらに京都の新日吉山王社へ寄進し、所領は新日吉社領河越荘と呼ばれるようになった。この年の武蔵国司は平知盛であり、『平家物語』「知章最期」の章段に書かれた一ノ谷の合戦場面で、重頼の嫡男・河越重房が知盛の逃がした名馬・井上黒(河越黒)を捕らえる逸話の縁が伺える。
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