就航後の青函航路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/07 14:24 UTC 版)
この2隻就航と相前後する1918年(大正7年)9月には、国鉄青函連絡船開設以来、比羅夫丸型で運航されてきた客貨混載の旅客便 1便・2便・3便・4便への貨物積載が廃止されたが、貨物船に関しては6隻目の短期傭船の解傭程度に留まった。このため、翌1919年(大正8年)4月3日と4月6日に、1918年(大正7年)大阪木津川筋の鈴木商店木津川工場で建造された鉄道院の木造石炭運搬船で、共に載貨重量1,477トンの第一快運丸(1,081.00総トン)、第二快運丸(998.56総トン)の2隻を貨物船に転用して青函航路へ就航させ、貨物輸送力の一層の増強を図った。この2隻の追加就航でようやく貨物輸送力は充足し、1919年(大正8年)3月と4月には旅客定員が少ない万成源丸と蛟龍丸の2隻の貨物船を解傭する一方、同じ4月に旅客設備のある伏木丸(1,330.28総トン)を傭船し、更に翌1920年(大正9年)4月には客船敦賀丸(996.51総トン)を傭船し、旅客輸送力増強へと重点を移した。 1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけ、既に貨物扱いはしていなかった比羅夫丸・田村丸の貨物積載設備撤去と旅客設備増設工事が2回にわたり施工され、客船化された。 しかし、1920年(大正9年)から始まった戦後恐慌の影響で、貨物は1920年(大正9年)度の45万5597トンをピークに以後3年間減少を続けたが、1923年(大正12年)度の40万6459万トンを底に再度増加に転じたため、1924年(大正13年)10月には山陽丸(972.00総トン)を、1925年(大正14年)1月から2月までの約1ヵ月間、伊吹丸(978.28総トン)を傭船し、車両航送開始前年の1924年(大正13年)年度には大戦景気のピーク時の1920年(大正9年)度を上回る46万5860トンを輸送した。 待望の車載客船翔鳳丸型4隻が1924年(大正13年)5月から12月にかけ順次就航したため、傭船旅客船の伏木丸、敦賀丸は余剰となり、同年10月に解傭され、同様に比羅夫丸、田村丸も10月と12月には係船されたが、車両航送用陸上設備未完のため、翔鳳丸型は貨物輸送はできず、これら4隻の貨物船は車両航送開始の1925年(大正14年)8月1日の前後まで運航された。白神丸は1925年(大正14年)7月30日終航、竜飛丸は1926年(大正15年)4月2日係船、第一快運丸は1925年(大正14年)9月3日係船、第二快運丸も同9月3日係船され、傭船の山陽丸は同5月30日まで運航され、白神丸・竜飛丸は1926年(大正15年)売却された。 白神丸・竜飛丸の船名はその後、青函航路の補助汽船「しらかみ丸」(1948年(昭和23年)建造の初代、1969年(昭和44年)建造の2代目)・「たっぴ丸」(1968年(昭和43年)建造)へ平仮名書きで襲名された。
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