第32駆逐隊
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本艦が隼鷹護衛中の1943年(昭和18年)10月1日付で、玉波は第32駆逐隊(駆逐隊司令中原義一郎 大佐)に編入される。32駆は夕雲型定数4隻(玉波〈藤永田造船所、4月20日竣工〉、涼波〈浦賀船渠、7月27日竣工〉、藤波〈藤永田造船所、7月31日竣工〉、早波〈舞鶴海軍工廠、7月31日竣工〉)となった。10月14日、艦隊(隼鷹、雲鷹、玉波、曙)は佐伯を出撃する。10月19日、隼鷹隊はトラック泊地に到着した。本艦はトラック泊地で待機する。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 同年11月上旬、ブーゲンビル島の戦いに伴うろ号作戦の大戦果(誤認)に呼応し、第二艦隊司令長官栗田健男中将が指揮する重巡洋艦基幹の遊撃部隊(重巡〈愛宕、高雄、鳥海、摩耶、鈴谷、最上、筑摩〉、第二水雷戦隊〔軽巡〈能代〉、第32駆逐隊〈玉波、涼波、藤波、早波〉、島風型〈島風〉〕)は、トラック泊地からラバウルへ進出する。だが11月5日、栗田部隊はアメリカ軍機動部隊の空襲を受けて大きな被害を出す(ラバウル空襲)。栗田部隊は、航行不能の摩耶や二水戦主力等を残してラバウルから退避した。トラック回航部隊のうち最上は損傷により速力12ノットしか発揮できず、遊撃部隊に同行できなかった。そこで最上は単独帰投となり、玉波がその護衛に従事した。その後、鈴谷と島風が遊撃部隊から分離して、最上と玉波の警戒に従事した。11月8日、4隻はトラック泊地に到着した。最上艦長相徳一郎大佐は、玉波に対し「ラバウル出港以来連日連夜わが艦の護衛に任じてくれた駆逐艦玉波の労苦に対しては、深甚の謝意を表する次第である。」と回想している。 11月11日、二水戦の玉波と島風は、空母翔鶴、第四戦隊(愛宕、高雄) を護衛してトラック泊地を出発する。11月15日、翔鶴隊は横須賀に到着した。修理と整備を実施する。 11月26日、駆逐艦4隻(玉波、島風、谷風、秋月)は空母翔鶴 と千歳 を護衛して日本本土を出撃した。12月1日、翔鶴隊はトラック泊地に到着した。二水戦の3隻(島風、玉波、五月雨)は数日間、トラック泊地で待機する。 12月7日、玉波と島風は「第七〇七二船団」(富士山丸、神国丸) を護衛してトラックを出発した。11日、玉波と島風は途中で富士山丸船団護衛を止め、その後の護衛は哨戒艇に引き継ぐ。玉波と島風は日栄丸船団(日栄丸、旭東丸、照川丸)に合同してトラック泊地に向かった。12月15日、日栄丸船団はトラック泊地に到着した。。同時期、工作艦明石の世話になっていた最上の応急修理が完成する。12月16日、最上艦長の指揮下、最上、玉波(第32駆逐隊)、霞(第9駆逐隊)はトラック泊地を出発した。12月21日、最上隊は日本本土に帰還する。玉波は呉で、霞は舞鶴で、修理と整備をおこなった。
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