昭和18年下旬の行動とは? わかりやすく解説

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昭和18年下旬の行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:11 UTC 版)

藤波 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年下旬の行動」の解説

9月上旬大本営中部太平洋方面防備増強すべく、日本陸軍52師団派遣決定するこの中から一部兵力(甲支隊)を海上機動兵団としてトラック泊地方面配置し連合艦隊との協同訓練任ずる事とした。甲支隊歩兵第107連隊支隊長は山中萬次郎陸軍大佐)の第一次輸送部隊は、空母隼鷹軽巡洋艦木曾多摩等により、トラック泊地およびポナペ島進出した9月下旬連合艦隊戦艦山城伊勢および第十一水戦隊により丁三号輸送部隊編成した。甲支隊第二次輸送部隊歩兵第107連隊第3大隊機関銃野砲中隊など、合計2000名)を輸送することになった10月13日から14日にかけて、甲支隊宇品広島県)で各艦に分乗する。翌15日、丁三号輸送部隊山城第十一水戦隊旗艦〕、伊勢龍田早波、涼波、藤波)は佐伯および豊後水道出撃した。10月20日トラック諸島到着する戦艦搭載物件を各艦と輸送船4隻に移載した。第十一水戦隊龍田早波、涼波、藤波)は三回次にわたりポナペ輸送実施した10月28日、丁三号輸送部隊解散同日附で第32駆逐隊第二水雷戦隊復帰する遊撃部隊警戒所属第十一水戦隊龍田山城伊勢)は空母隼鷹雲鷹と共に内地戻った第32駆逐隊早波、涼波、藤波)は10月29日高間少将第二水雷戦隊司令官)の、10月30日栗田健男中将第二艦隊司令長官)の視察を受ける。10月31日時点第二水雷戦隊は、阿賀野型軽巡洋艦能代旗艦)と島風駆逐艦島風、第24駆逐隊海風涼風満潮)、第27駆逐隊時雨五月雨白露)、第31駆逐隊大波巻波長波)、第32駆逐隊早波、涼波、玉波藤波)で編制され各地分散して行動していた。 11月3日第二水雷戦隊能代、涼波、藤波早波玉波)は、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊愛宕第二艦隊旗艦〕、高雄摩耶鳥海鈴谷最上筑摩と共にトラック泊地出撃ラバウル進出する途中日章丸昭和タンカー10,526トン)がカビエン北方約180浬地点空襲受けて損傷し鳥海と涼波が遊撃部隊から分離して救援向かった詳細は「ラバウル空襲」を参照 11月5日第38任務部隊フレデリック・シャーマン少将)はラバウル対す空襲敢行した(ラバウル空襲)。同日6時頃にラバウル到着したばかりの栗田艦隊大打撃受けた。特に摩耶直撃弾により機関部火災発生航行不能となった藤波には魚雷1本が命中したが、不発だった(戦死1名、負傷9名)。南東方面部隊指揮官は、ラバウル移動中の鳥海と涼波を含めてラバウル所在重巡洋艦部隊トラック泊地への撤退命じた栗田艦隊トラック泊地帰投し、修理を必要とする藤波摩耶等とラバウル残留した同時期、ブーゲンビル島タロキナ岬対す逆上作戦実施されたが、藤波修理のため参加できなかった。 11月11日早朝、第50.3任務群(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)の増援受けたアメリカ軍機動部隊は、第2回目ラバウル空襲敢行した。第二水雷戦隊能代第31駆逐隊大波長波巻波〉、第32駆逐隊早波、涼波、玉波藤波〉)はろ号作戦協力のため出動準備整えていたが、アメリカ軍機動部隊空襲予期し空襲警報受けてスコールにまぎれながらラバウル港外脱出しつつあった。このラバウル空襲軽巡洋艦阿賀野魚雷命中により艦尾切断損害受けた。また涼波が沈没している。長波第31駆逐隊)も大破し、他数隻に軽微な被害があった。 南東方面艦隊下令によりラバウル在泊艦艇能代阿賀野摩耶長鯨浦風若月風雲早波藤波五月雨)はトラック泊地撤退する退却途中アメリカ潜水艦スキャンプ雷撃阿賀野航行不能となった第二水雷戦隊能代早波藤波)は摩耶長鯨護衛中断トラック泊地から来た応援艦(長良涼月初月と共に阿賀野浦風救援あたった一連の経過により、ラバウルに残る第二水雷戦隊第31駆逐隊大波巻波長波となったこのうち大波巻波11月24日セント・ジョージ岬沖海戦沈没し航行不能長波のみラバウル取り残された。また涼波沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが、12月15日附で夕雲型13番艦浜波(舞鶴海軍工廠建造10月15日竣工駆逐艦長本倉正義中佐海兵51期)を編入し定数4隻を回復したトラック帰投後の第二水雷戦隊能代早波藤波)はクェゼリン環礁およびウォッジェ環礁への緊急輸送作戦参加した輸送作戦終了後12月4日遊撃部隊分離してサイパン島への輸送従事サイパン島トラック間での船団護衛行った12月24日トラック泊地到着本艦船団護衛任務従事中の12月15日第二水雷戦隊司令官高間少将第十一水戦隊司令官転任後任二水司令官は、戦艦長門艦長早川幹夫少将12月中旬大本営独立混成第一聯隊聯隊長坂本康一陸軍大佐、約2900名)を南東方面派遣しニューアイルランド島防備固めることにした。この輸送は「戊号輸送」と呼ばれた12月23日-24日陸軍部隊輸送するため、第五戦隊司令官橋本信太郎少将指揮する二号輸送部隊は呉を出撃した。ところが、駆逐艦時雨第27駆逐隊司令原為一大佐)が漁船衝突し修理のため引き返した藤波時雨の代艦として戊二号輸送部隊編入サイパン方面対潜掃蕩任務僚艦島風第二水雷戦隊)に引き継ぐトラック泊地出動した藤波は、28日に戊二号輸送部隊合流した12月29日藤波加えた二号輸送部隊トラック泊地到着する

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昭和18年下旬の行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 04:51 UTC 版)

早波 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年下旬の行動」の解説

1943年昭和18年10月31日11月1日連合軍ブーゲンビル島タロキナ岬上陸開始ブーゲンビル島の戦いが始まる。連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、まず第一航空戦隊航空戦力南東方面投入しつづいてトラック泊地主力艦艇も南東方面投入することを決定した11月3日午前7時45分第二艦隊司令長官栗田健男中将愛宕座乗指揮下の重巡洋艦部隊第四戦隊愛宕高雄摩耶鳥海〉、第七戦隊鈴谷最上〉、第八戦隊筑摩〉)、第二水雷戦隊軽巡洋艦能代〉、第32駆逐隊玉波、涼波、早波藤波〉)はトラック泊地出撃した。航行中4日午前航行不能となったタンカー日章丸救援鳥海と涼波を分離する11月5日午前6時頃、栗田長官指揮下の遊撃部隊ラバウル到着した同日午前7時空母2隻(サラトガプリンストン)を基幹とするアメリカ機動部隊第38任務部隊)はラバウル在泊艦艇対す空襲敢行する栗田艦隊重巡部隊は各艦とも損害をうける。南東方面艦隊長官草鹿任一中将栗田艦隊ラバウル進出中の鳥海を含む)のトラック泊地帰投下令した。航行不能摩耶を除く重巡各艦は、11月7日8日にかけてトラック泊地戻った空襲到る経緯損害詳細当該記事参照)。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 栗田艦隊去ったあと、南東方面部隊第十戦隊司令官大杉守一少将)・第二水雷戦隊第三水雷戦隊残存艦によりブーゲンビル島タロキナ岬日本陸軍第17師団一部)を輸送逆上陸を敢行することになった同作戦は、支援部隊指揮官第十戦隊司令官第一支援隊〈阿賀野若月風雲浦風〉、第二支援隊〈能代早波長波〉)、挺身輸送部隊指揮官香川清登第31駆逐隊司令警戒隊〈大波巻波〉、輸送隊天霧文月卯月夕凪〉)により実施された。輸送部隊11月7日0007にタロキナ泊地着後、午前1時迄に揚陸完了同日1000ラバウル帰投した。またブカ島輸送終えた3隻(夕張水無月時雨)も同港に到着した11月11日早朝、第50.3任務部隊アルフレッド・E・モントゴメリー少将)の増援受けた米軍機部隊は、第2回目ラバウル空襲敢行した。この空襲軽巡阿賀野第十戦隊旗艦)が魚雷命中により艦尾喪失二水戦からは、駆逐艦涼波(第32駆逐隊)が沈没する。また駆逐艦長波(第31駆逐隊)が大破した。他数隻に軽微な被害があった。 南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将)の下令によりラバウル在泊艦艇巡洋艦能代阿賀野摩耶〉、潜水母艦長鯨〉、駆逐艦浦風若月風雲早波藤波五月雨〉)はトラック泊地撤退することになった11月12日先行してラバウル出発した阿賀野浦風アメリカ潜水艦スキャンプ襲撃被雷した阿賀野航行不能となった二水戦3隻(能代早波藤波)は摩耶護衛中断、十戦隊2隻(阿賀野航行不能〉、浦風臨時戦隊旗艦〉)の救援従事する能代阿賀野曳航開始した。またトラック泊地より軽巡長良および秋月型駆逐艦初月涼月派遣され順次合流阿賀野護衛部隊(能代長良浦風早波藤波初月涼月となった途中で能代の曳索が切れたため、長良阿賀野曳航担当する11月15日夜、阿賀野トラック泊地到着した。 涼波の沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが、12月15日附で夕雲型駆逐艦浜波(舞鶴海軍工廠建造艦)(浜波艦長本倉正義中佐海兵51期)を編入し定数4隻(早波藤波玉波、浜波)を回復した詳細は「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」を参照 11月中旬以降連合軍ガルヴァニック作戦発動米軍機部隊によるギルバート諸島への空襲上陸作戦始まったマキンの戦いタラワの戦い)。連合艦隊米軍機部隊との決戦備えZ作戦用意」を下令する。ポナペ島配備の甲支隊2000名を、ギルバート諸島逆上陸させようという作戦である。第四艦隊司令長官指揮官とするタラワ増援部隊編成され第二水雷戦隊も同部隊組み込まれた。第二艦隊司令長官栗田健男中将旗艦鳥海)を指揮官とする支援部隊は、直率の主隊(第四戦隊鳥海〉、第七戦隊鈴谷熊野〉、第八戦隊筑摩〉)、警戒隊(二水戦旗艦〈能代〉、第32駆逐隊早波藤波〉、第61駆逐隊涼月初月〉、第17駆逐隊浜風〉)という区分であった。主隊と警戒隊は11月24日トラック泊地出撃26日ルオット経由続いて鳥海二水戦のみクェゼリン環礁進出した。だが、タラワ守備隊マキン守備隊玉砕し、同方面への逆上作戦実施されなかった。続いて二水戦は、イミエジ(ジャルート環礁)、ウォッジェ環礁方面への緊急輸送作戦参加した洋上ではギルバート諸島沖航空戦生起したが、結局ギルバート諸島方面への増援輸送中止となった12月3日遊撃部隊ルオット出発する12月5日遊撃部隊トラック泊地帰投した(藤波サイパン方面輸送作戦のため分離別行動)。 12月11日早波タンカー日本丸」を護衛してトラック泊地出発パラオへむかう。12月14日早波日本丸パラオ到着同日タンカー玄洋丸護衛のためパラオ出撃翌日合流)。途中で駆逐艦(第6駆逐隊)と護衛任務引き継ぎ早波パラオ戻った17日到着)。 早波船団護衛任務従事中の12月15日第二水雷戦隊司令官高間少将第十一水戦隊司令官転任後任二水司令官は、早川幹夫少将当時戦艦長門艦長)となる。 12月20日早波パラオ出発した洋上駆逐艦島風第二水雷戦隊)より健洋丸の護衛任務引き継ぐ島風トラック泊地帰投)。12月22日早波と健洋丸はパラオ到着12月23日本艦油槽船3隻(石廊日本丸、健洋丸)を護衛してパラオ出発25日まで護衛したあと、26日パラオ戻った12月28日パラオ出発翌日日栄丸船団と合同し吹雪型駆逐艦天霧第三水雷戦隊)より護衛任務引き継いだ

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