昭和18年下旬の行動
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「藤波 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年下旬の行動」の解説
9月上旬、大本営は中部太平洋方面の防備を増強すべく、日本陸軍第52師団の派遣を決定する。この中から一部兵力(甲支隊)を海上機動兵団としてトラック泊地方面に配置し、連合艦隊との協同訓練に任ずる事とした。甲支隊(歩兵第107連隊、支隊長は山中萬次郎陸軍大佐)の第一次輸送部隊は、空母隼鷹や軽巡洋艦木曾・多摩等により、トラック泊地およびポナペ島へ進出した。 9月下旬、連合艦隊は戦艦山城と伊勢および第十一水雷戦隊により丁三号輸送部隊を編成した。甲支隊の第二次輸送部隊(歩兵第107連隊第3大隊や機関銃・野砲中隊など、合計2000名)を輸送することになった。10月13日から14日にかけて、甲支隊は宇品(広島県)で各艦に分乗する。翌15日、丁三号輸送部隊(山城〔第十一水雷戦隊旗艦〕、伊勢、龍田、早波、涼波、藤波)は佐伯および豊後水道を出撃した。10月20日、トラック諸島に到着する。戦艦搭載の物件を各艦と輸送船4隻に移載した。第十一水雷戦隊(龍田、早波、涼波、藤波)は三回次にわたりポナペ輸送を実施した。 10月28日、丁三号輸送部隊は解散。同日附で第32駆逐隊は第二水雷戦隊に復帰する。遊撃部隊警戒隊所属。第十一水雷戦隊(龍田、山城、伊勢)は空母隼鷹や雲鷹等と共に内地へ戻った。第32駆逐隊(早波、涼波、藤波)は10月29日に高間完少将(第二水雷戦隊司令官)の、10月30日に栗田健男中将(第二艦隊司令長官)の視察を受ける。10月31日時点の第二水雷戦隊は、阿賀野型軽巡洋艦能代(旗艦)と島風型駆逐艦島風、第24駆逐隊(海風、涼風、満潮)、第27駆逐隊(時雨、五月雨、白露)、第31駆逐隊(大波、巻波、長波)、第32駆逐隊(早波、涼波、玉波、藤波)で編制され、各地に分散して行動していた。 11月3日、第二水雷戦隊(能代、涼波、藤波、早波、玉波)は、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊(愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄、摩耶、鳥海、鈴谷、最上、筑摩)と共にトラック泊地を出撃。ラバウルへ進出する。途中、日章丸(昭和タンカー、10,526トン)がカビエン北方約180浬地点で空襲を受けて損傷し、鳥海と涼波が遊撃部隊から分離して救援に向かった。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 11月5日、第38任務部隊(フレデリック・シャーマン少将)はラバウルに対する空襲を敢行した(ラバウル空襲)。同日朝6時頃にラバウルへ到着したばかりの栗田艦隊は大打撃を受けた。特に摩耶は直撃弾により機関部で火災が発生、航行不能となった。藤波には魚雷1本が命中したが、不発だった(戦死1名、負傷9名)。南東方面部隊指揮官は、ラバウル移動中の鳥海と涼波を含めてラバウル所在の重巡洋艦部隊にトラック泊地への撤退を命じた。栗田艦隊はトラック泊地へ帰投し、修理を必要とする藤波は摩耶等とラバウルに残留した。同時期、ブーゲンビル島タロキナ岬に対する逆上陸作戦が実施されたが、藤波は修理のため参加できなかった。 11月11日早朝、第50.3任務群(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)の増援を受けたアメリカ軍機動部隊は、第2回目のラバウル空襲を敢行した。第二水雷戦隊(能代、第31駆逐隊〈大波、長波、巻波〉、第32駆逐隊〈早波、涼波、玉波、藤波〉)はろ号作戦協力のため出動準備を整えていたが、アメリカ軍機動部隊の空襲を予期し、空襲警報を受けてスコールにまぎれながらラバウル港外に脱出しつつあった。このラバウル空襲で軽巡洋艦阿賀野が魚雷命中により艦尾切断の損害を受けた。また涼波が沈没している。長波(第31駆逐隊)も大破し、他数隻に軽微な被害があった。 南東方面艦隊の下令によりラバウル在泊艦艇(能代、阿賀野、摩耶、長鯨、浦風、若月、風雲、早波、藤波、五月雨)はトラック泊地に撤退する。退却の途中、アメリカ潜水艦スキャンプの雷撃で阿賀野が航行不能となった。第二水雷戦隊(能代、早波、藤波)は摩耶・長鯨護衛を中断、トラック泊地から来た応援艦(長良、涼月、初月)と共に阿賀野と浦風の救援にあたった。 一連の経過により、ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波)となった。このうち大波と巻波も11月24日のセント・ジョージ岬沖海戦で沈没し、航行不能の長波のみラバウルに取り残された。また涼波沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが、12月15日附で夕雲型13番艦浜波(舞鶴海軍工廠で建造、10月15日竣工。駆逐艦長本倉正義中佐、海兵51期)を編入し、定数4隻を回復した。 トラックに帰投後の第二水雷戦隊(能代、早波、藤波)はクェゼリン環礁およびウォッジェ環礁への緊急輸送作戦に参加した。輸送作戦終了後の12月4日、遊撃部隊と分離してサイパン島への輸送に従事。サイパン島とトラック間での船団護衛を行った。12月24日、トラック泊地到着。本艦が船団護衛任務従事中の12月15日、第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官へ転任。後任の二水戦司令官は、戦艦長門艦長早川幹夫少将。 12月中旬、大本営は独立混成第一聯隊(聯隊長は坂本康一陸軍大佐、約2900名)を南東方面に派遣し、ニューアイルランド島の防備を固めることにした。この輸送は「戊号輸送」と呼ばれた。12月23日-24日、陸軍部隊を輸送するため、第五戦隊司令官橋本信太郎少将が指揮する戊二号輸送部隊は呉を出撃した。ところが、駆逐艦時雨(第27駆逐隊司令原為一大佐)が漁船と衝突し修理のため引き返した。藤波は時雨の代艦として戊二号輸送部隊に編入、サイパン方面対潜掃蕩任務を僚艦島風(第二水雷戦隊)に引き継ぐ。トラック泊地を出動した藤波は、28日に戊二号輸送部隊と合流した。12月29日、藤波を加えた戊二号輸送部隊はトラック泊地に到着する。
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昭和18年下旬の行動
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「早波 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年下旬の行動」の解説
1943年(昭和18年)10月31日〜11月1日、連合軍はブーゲンビル島のタロキナ岬に上陸を開始、ブーゲンビル島の戦いが始まる。連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、まず第一航空戦隊航空戦力を南東方面に投入し、つづいてトラック泊地の主力艦艇も南東方面に投入することを決定した。 11月3日午前7時45分、第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)指揮下の重巡洋艦部隊(第四戦隊〈愛宕、高雄、摩耶、鳥海〉、第七戦隊〈鈴谷、最上〉、第八戦隊〈筑摩〉)、第二水雷戦隊(軽巡洋艦〈能代〉、第32駆逐隊〈玉波、涼波、早波、藤波〉)はトラック泊地を出撃した。航行中の4日午前、航行不能となったタンカー日章丸の救援に鳥海と涼波を分離する。11月5日午前6時頃、栗田長官指揮下の遊撃部隊はラバウルに到着した。 同日午前7時、空母2隻(サラトガ、プリンストン)を基幹とするアメリカ機動部隊(第38任務部隊)はラバウル在泊艦艇に対する空襲を敢行する。 栗田艦隊の重巡部隊は各艦とも損害をうける。南東方面艦隊長官草鹿任一中将は栗田艦隊(ラバウル進出中の鳥海を含む)のトラック泊地帰投を下令した。航行不能の摩耶を除く重巡各艦は、11月7日―8日にかけてトラック泊地に戻った(空襲に到る経緯と損害詳細は当該記事を参照)。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 栗田艦隊が去ったあと、南東方面部隊は第十戦隊(司令官大杉守一少将)・第二水雷戦隊・第三水雷戦隊の残存艦によりブーゲンビル島タロキナ岬に日本陸軍(第17師団の一部)を輸送、逆上陸を敢行することになった。同作戦は、支援部隊(指揮官第十戦隊司令官、第一支援隊〈阿賀野、若月、風雲、浦風〉、第二支援隊〈能代、早波、長波〉)、挺身輸送部隊(指揮官香川清登第31駆逐隊司令、警戒隊〈大波、巻波〉、輸送隊〈天霧、文月、卯月、夕凪〉)により実施された。輸送部隊は11月7日0007にタロキナ泊地着後、午前1時迄に揚陸を完了。同日1000、ラバウルに帰投した。またブカ島輸送を終えた3隻(夕張、水無月、時雨)も同港に到着した。 11月11日早朝、第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)の増援を受けた米軍機動部隊は、第2回目のラバウル空襲を敢行した。この空襲で軽巡阿賀野(第十戦隊旗艦)が魚雷命中により艦尾を喪失。二水戦からは、駆逐艦涼波(第32駆逐隊)が沈没する。また駆逐艦長波(第31駆逐隊)が大破した。他数隻に軽微な被害があった。 南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の下令によりラバウル在泊艦艇(巡洋艦〈能代、阿賀野、摩耶〉、潜水母艦〈長鯨〉、駆逐艦〈浦風、若月、風雲、早波、藤波、五月雨〉)はトラック泊地に撤退することになった。11月12日、先行してラバウルを出発した阿賀野と浦風をアメリカ潜水艦スキャンプが襲撃、被雷した阿賀野は航行不能となった。二水戦3隻(能代、早波、藤波)は摩耶護衛を中断、十戦隊2隻(阿賀野〈航行不能〉、浦風〈臨時十戦隊旗艦〉)の救援に従事する。能代は阿賀野の曳航を開始した。またトラック泊地より軽巡長良および秋月型駆逐艦初月と涼月が派遣されて順次合流、阿賀野護衛部隊(能代、長良、浦風、早波、藤波、初月、涼月)となった。途中で能代の曳索が切れたため、長良が阿賀野曳航を担当する。11月15日夜、阿賀野はトラック泊地に到着した。 涼波の沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが、12月15日附で夕雲型駆逐艦浜波(舞鶴海軍工廠建造艦)(浜波艦長本倉正義中佐。 海兵51期)を編入し、定数4隻(早波、藤波、玉波、浜波)を回復した。 詳細は「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」を参照 11月中旬以降、連合軍はガルヴァニック作戦を発動、米軍機動部隊によるギルバート諸島への空襲と上陸作戦が始まった(マキンの戦い、タラワの戦い)。連合艦隊は米軍機動部隊との決戦に備え「Z作戦用意」を下令する。ポナペ島配備の甲支隊約2000名を、ギルバート諸島へ逆上陸させようという作戦である。第四艦隊司令長官を指揮官とするタラワ増援部隊が編成され、第二水雷戦隊も同部隊に組み込まれた。第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦鳥海)を指揮官とする支援部隊は、直率の主隊(第四戦隊〈鳥海〉、第七戦隊〈鈴谷、熊野〉、第八戦隊〈筑摩〉)、警戒隊(二水戦旗艦〈能代〉、第32駆逐隊〈早波、藤波〉、第61駆逐隊〈涼月、初月〉、第17駆逐隊〈浜風〉)という区分であった。主隊と警戒隊は11月24日にトラック泊地を出撃、26日ルオットを経由、続いて鳥海と二水戦のみクェゼリン環礁に進出した。だが、タラワ守備隊とマキン守備隊は玉砕し、同方面への逆上陸作戦は実施されなかった。続いて二水戦は、イミエジ(ジャルート環礁)、ウォッジェ環礁方面への緊急輸送作戦に参加した。洋上ではギルバート諸島沖航空戦が生起したが、結局ギルバート諸島方面への増援輸送は中止となった。12月3日、遊撃部隊はルオットを出発する。12月5日、遊撃部隊はトラック泊地に帰投した(藤波はサイパン方面輸送作戦のため分離、別行動)。 12月11日、早波はタンカー「日本丸」を護衛してトラック泊地を出発、パラオへむかう。12月14日、早波と日本丸はパラオ到着。同日、タンカー玄洋丸護衛のためパラオを出撃(翌日合流)。途中で駆逐艦雷(第6駆逐隊)と護衛任務を引き継ぎ、早波はパラオに戻った(17日到着)。 早波が船団護衛任務従事中の12月15日、第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官へ転任。後任の二水戦司令官は、早川幹夫少将(当時、戦艦長門艦長)となる。 12月20日、早波はパラオを出発した。洋上で駆逐艦島風(第二水雷戦隊)より健洋丸の護衛任務を引き継ぐ(島風はトラック泊地へ帰投)。12月22日、早波と健洋丸はパラオに到着。12月23日、本艦は油槽船3隻(石廊、日本丸、健洋丸)を護衛してパラオを出発。25日まで護衛したあと、26日にパラオへ戻った。12月28日、パラオを出発。翌日、日栄丸船団と合同して吹雪型駆逐艦天霧(第三水雷戦隊)より護衛任務を引き継いだ。
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