昭和18年以降とは? わかりやすく解説

昭和18年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 17:27 UTC 版)

八丈 (海防艦)」の記事における「昭和18年以降」の解説

1943年昭和18年1月6日キスカ島北方において輸送船もんとりーる丸」が空襲により撃沈され、陸軍将兵831名が戦死した2月になると米軍策動活発化し、従来航空攻撃くわえて水上艦艇投入するようになった同月中旬第五艦隊複数輸送船団編成キスカ島およびアッツ島への輸送実施したキスカ島行きの第14船団崎戸丸、春幸丸、軽巡木曾、第21駆逐隊若葉初霜〉)、キスカ島行きの第15船団粟田丸、軽巡阿武隈駆逐艦電)、アッツ島行きの第16船団あかがね丸、海防艦八丈)である。「あかがね丸」は2月中二度目の突入だった(前回第十船団駆逐艦沼風護衛2月3日アッツ島揚陸)。 2月13日、第14船団幌筵島出撃キスカ島に向かうが米艦隊出撃情報燃料不足により引き返した。第14船団損害はなかった。2月14日、第16船団あかがね丸、八丈)は幌筵島出撃アッツ島へ向かう。「あかがね丸」の搭載物件は、アッツ島向けの糧秣弾薬および数百名の増援部隊だったという。2月16日から17日にかけて、日本軍水上偵察機部隊452空所属機)は巡洋艦駆逐艦複数から成る艦隊発見各方面通報した2月19日、米艦隊アッツ島対地砲撃敢行した。艦砲射撃と共に空襲おこなわれ日本軍守備隊若干被害をうけた。軍令部高松宮宣仁大佐昭和天皇弟宮)は『唯アレヨアレヨト云フバカリ。第五艦隊巡洋艦何処ヘイツタ。之ニ水戦ヲヤツタラ台ナシナリ。危イ、ヤリサウナ気ガスル』と懸念した。 米艦隊遊弋する中で北方部隊指揮官細萱戊子郎第五艦隊司令長官は第16船団アッツ島突入を一旦延期したが、2月20日午前8時58分、あかがね丸の21日未明アッツ島突入発令する海防艦航続距離や、夜間敵艦隊と遭遇する確率考慮した結果だった。同日午後4時20分、アッツ島西端沖合で「八丈」は「あかがね丸」(3,121トン)と分離する直後午後6時20以降、「あかがね丸」は単独航行中アメリカ海軍水上艦隊(指揮官チャールズ・マクモリス少将軽巡洋艦リッチモンド旗艦》、重巡洋艦インディアナポリス駆逐艦4隻)と遭遇するインディアナポリスらの砲撃により、「あかがね丸」は撃沈された(生存者なし)。これを「あかがね事件」と称し北方方面における日本軍の戦略大きな影響あたえた2月22日、「八丈」は幌筵島帰投。磯久中佐八丈海防艦長)は『二十日一六〇〇熱田西端二九一度七八ニテあかがね丸ヲ突入セシメ引返シタル一八二〇ヨリ後方一七〇度附近水平線上ニ約四分ニ亘リ十數回ノ發砲閃光ラシキモノヲ認メタルモあかがね丸ヨリノ通信ナク其ノ後未ダ連絡ナシ 突入本艦針路二七〇度速力十二節あかがね丸針路九四度速力八、五節』と報告した高松宮アメリカ海軍省の公式発表知り、以下の所見述べている。 あかがね丸ハ「八丈護衛シ、例ニヨリ対空顧慮上、分離セシメ侵入セシメタノデアラウ。陸軍カラ入泊マデツイテキテホシイト要望シキリニアリ、第五艦隊ハサウスルト敵攻撃圏内ニ入リ、昼間逃ゲラレヌカラト云ツテ、ヤラナイノデアル。陸兵300兵器搭載ノモノ》《鳴神ヘハ粟田丸ガ二一入港シタ。之ガ出ラレナクナリサウナリ》《他ニモ一ツ崎戸丸、春幸丸ガ鳴神ニ入ルベク北方往復待機シアリ》 — 高松宮宣仁親王高松宮日記 第六巻 41ページ 第十船団キスカ島への輸送作戦実施2月18日幌筵出撃)、成功した阿武隈と電は25日幌筵着、粟田丸は27日幌筵着)。アメリカ海軍水上艦艇による「あかがね丸」喪失により対水上艦戦を考慮する必要が生じ北方方面輸送作戦集団輸送潜水艦輸送切り替えられた。北方部隊主力艦艇(那智摩耶多摩木曾阿武隈君川丸、第6駆逐隊、電〉、第21駆逐隊若葉初霜〉)等は、それぞれ幌筵方面進出する占守型「国後」と「八丈」も輸送作戦協力した3月6日-13日まで軍隊区分北方部隊編入されアッツ島への輸送作戦従事23日-28日まで第五艦隊作戦指揮下に編入され行動3月下旬にはアッツ島行き第二次集団輸送(ロ船団アッツ島地区隊長山崎保代陸軍大佐乗船)を巡ってアッツ島沖海戦生起した。 5月12日米軍アッツ島上陸開始日本軍守備隊5月29日玉砕した幌筵島配備され一式陸上攻撃機第二十四航空戦隊・第752航空隊指揮官野中五郎海軍大尉)がアッツ島出撃するにあたり、「八丈」と「石垣」は気象観測無線誘導のため洋上行動したアッツ島の戦い)。 8月5日日本海軍第五艦隊司令長官河瀬四郎中将)と第十二航空艦隊司令長官戸塚道太郎中将)により北東方面艦隊司令長官戸塚道太郎中将十二艦長兼任)を新編した。千島方面特別根拠地隊千島方面根拠地隊改編され、北東方面艦隊作戦指揮下に入る。軍隊区分千島防備部隊配される。「八丈」は、「国後」や第1駆逐隊神風沼風波風野風と共に船団護衛対潜掃蕩任務従事した10月18日八丈海防艦長は磯久研磨大佐から並木秀夫少佐交代した1944年昭和19年1月4日大湊入港2月17日まで、入渠整備。出渠後は主として千島列島行き船団護衛従事した9月8日午後8時前後、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯4726東経14824分 / 北緯47.433度 東経148.400度 / 47.433; 148.400の地点で「波風」が被雷船体後部切断される(米潜水艦シール依る)。本艦のほか「野風」と「神風」が救援に向かう。3艦で「波風」を護衛し、「神風」が曳航担当して小樽へむかう。13日小樽着着11月23日-1945年1月8日まで、「八丈」は大湊入渠整備おこなった1945年昭和20年4月10日日本海軍海防艦複数隻(福江国後八丈笠戸占守択捉)により、大湊警備府司令長官宇垣完爾中将麾下第百四戦隊司令官渡辺清七少将) を新編した。軍隊区分警戒部隊八丈国後占守笠戸択捉)に配され八丈海防艦長指揮下で行動した4月13日-25日まで、第百四戦隊司令官将旗を「福江」から移揚。5月11日幌筵海峡で警泊中に空襲を受け、至近弾により中破片岡湾岸壁で応急修理ののち25日、ヘ船団同行し大湊回航6月3日大湊到着同月29日まで大湊修理し舞鶴回航7月2日舞鶴入港し入渠修理終戦時舞鶴修理中。11月30日海軍省廃止に伴い除籍された。 1947年昭和22年2月1日時点で、舞鶴船体亀裂入りキール屈曲した状態にあり、舞鶴地方復員局所管行動不能艦艇(特)定められる戦後修理されるともなく、「粟国」「久賀」「第200号海防艦」と繋がれ舞鶴港内に繋留されていた。 5月3日行動不能艦艇(特)定め解かれ1947年10月-1948年4月にかけて飯野産業舞鶴造船所により解体された。八丈艦名海上自衛隊掃海艦はちじょう」に引き継がれた。

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