昭和18年前半の行動
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「巻波 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年前半の行動」の解説
新任の第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将(外南洋部隊増援部隊指揮官)は、旗艦を「長波」に指定した。増援部隊各艦はラバウルからショートランド泊地へ進出する。月暗期になり、鼠輸送が再開された。1943年(昭和18年)1月2日午前11時、駆逐艦10隻はショートランド泊地を出撃する。途中の空襲で「涼風」が損傷、「電」に護衛されて避退した。水上偵察機の協力を得て魚雷艇の襲撃を撃退、他に被害を出さず輸送作戦は成功した。 1月4日から7日にかけて、駆逐艦4隻(長波、巻波、江風、荒潮)はショートランド泊地とラバウルを往復、ラバウルでドラム缶を積み込むとショートランド泊地に戻った。また駆逐艦「大潮」(第8駆逐隊司令山代勝守大佐座乗)もドラム缶を搭載してショートランドに到着、増援部隊に編入される。一方、二水戦の長波、陽炎、親潮は艦の疲弊により作戦行動が難しくなり、トラック泊地に後退することになった。 1月10日から11日にかけて、二水戦隊司令官は駆逐艦8隻でガ島第六次輸送作戦を実施する。二水戦の輸送作戦は、概ね成功した。揚陸中、米軍魚雷艇の攻撃で駆逐艦「初風」が大破する。同艦は、僚艦に曳航されて撤退した。小柳少将は第4駆逐隊司令有賀幸作大佐と各艦を賞賛した。 本作戦をもって二水戦司令官は増援部隊指揮官の職務を第十戦隊司令官に引き継ぎ、「長波」に乗艦してトラック泊地に戻った。1月11日、第六次ガダルカナル島輸送作戦を終えた駆逐艦4隻(江風、巻波、大潮、荒潮)はニューギニア方面護衛部隊に編入され、ショートランド泊地を出発してラバウルへ向かった。 1月中旬、ガダルカナル島撤退を内定していた日本海軍は、それまで手がまわらなかった北部ソロモン(ブーゲンビル島、ブカ島など)と中部ソロモン(ニュージョージア諸島、サンタイサベル島など)の防備強化に乗り出した。ガ島飛行場砲撃を目的に編制された第八聯合特別陸戦隊(司令官大田実少将、海兵41期)が、この方面に配備されることになった。外南洋部隊各艦はソロモン諸島の防備強化に協力、輸送船護衛や駆逐艦輸送に従事する。また東部ニューギニアの戦局も逼迫しており、並行してニューギニア方面増援輸送もおこなった。日本軍は中国大陸所在の第二十師団と第四十一師団をラバウル方面投入を決定し、この輸送作戦を「丙号輸送」と呼称、第九戦隊司令官岸福治少将が輸送部隊指揮官となった。丙一号輸送部隊(軽巡北上、軽巡大井、輸送船多数)は第二十師団をニューギニア島ウェワクへ揚陸するよう命じられた。第二特別根拠地隊司令官鎌田道章少将は2隻(巻波、第34号駆潜艇)で大発動艇を搭載した陸軍輸送船2隻を護衛し、ウェワクに進出することになった。1月14日、輸送部隊はラバウルを出発、18日ウェワクに進出した。1月19日から23日にかけて輸送船団はウェワクに到着、丙一号輸送は損害なく完了した。 1月20日、第31駆逐隊に夕雲型駆逐艦7番艦「大波」(同年12月29日竣工、藤永田造船所)が編入され、同隊は3隻(長波、巻波、大波)となった(大波は1月25日、トラック泊地着)。大波駆逐艦長吉川潔中佐は、人見(巻波艦長)とは海軍兵学校第50期の同期である。 1月21日、輸送船団救援中の秋月型駆逐艦「秋月」(第十戦隊旗艦)が米潜水艦(ノーチラス)に雷撃されて損傷した。その際に第十戦隊司令官木村進少将が負傷したため、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将は21日付で第十戦隊司令官に任命された。後任の二水戦司令官は伊崎俊二少将(海軍兵学校42期) である。小柳少将は1月23日に退隊してラバウルへ移動する。伊崎司令官は1月30日に着任し、「神通」に将旗を掲げた。 詳細は「ガダルカナル島撤収作戦」を参照 ガダルカナル島撤退作戦のため、連合艦隊は南東方面部隊(指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)の駆逐艦を増強、また撤退作戦における予備指揮官として第三水雷戦隊(三水戦司令部、川内、白雪)を編入した。これらの増強戦力は、ただちに南東方面部隊麾下の外南洋部隊に編入された。1月25日、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将(海軍兵学校41期) は駆逐艦「白雪」に乗艦してラバウルからショートランド泊地に移動、27日ショートランドに到着すると「巻波」に三水戦司令官の将旗を掲げた。 1月29日のレンネル島沖海戦やガ島航空撃滅戦、ルッセル島占領を経て、日本軍はガ島撤収作戦を発動する。アメリカ軍は日本軍陽動作戦を「ガ島に対する増援作戦」と判断し、ガ島地上部隊の行動が鈍った。 第一次撤収部隊の兵力部署は、ガダルカナル島エスペランス岬へ向かう第三水雷戦隊と、同島のカミンボに向かう別働隊にわかれていた。三水戦司令官指揮下のエスペランス隊は、警戒隊(三水戦旗艦〈巻波〉、一番隊〈第4駆逐隊司令有賀幸作大佐、舞風、江風、黒潮〉、二番隊〈白雪、文月〉)、輸送隊(第十戦隊司令官小柳冨次少将、第10駆逐隊〈風雲、巻雲、夕雲、秋雲〉、第17駆逐隊〈谷風、浦風、浜風、磯風〉)であった。第16駆逐隊司令荘司喜一郎大佐指揮下のカミンボ隊は、第16駆逐隊(時津風、雪風)、第8駆逐隊(大潮、荒潮)、三番隊(皐月、長月)であった。31日、撤収部隊はショートランド泊地を出撃するが、南東方面部隊の命令により作戦は中止された。ガダルカナル島やサボ島周辺に米水上部隊が確認されたため、日本軍基地航空隊は空襲を敢行し、駆逐艦ド・ヘイヴン (USS De Haven, DD-469) を撃沈している(イサベル島沖海戦)。ショートランド泊地も連合国軍機に空襲されたが、撤収部隊に被害はなかった。 2月1日午前9時30分、第一次撤収部隊の駆逐艦20隻は再度ショートランド泊地を出撃した。「巻波」は第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将の旗艦としてガダルカナル島に向かった。同日夕刻、撤収部隊は零戦18機の掩護下で、ヘンダーソン基地から飛来した米軍機(ワイルドキャット戦闘機 17、ドーントレス艦爆 17、アヴェンジャー艦攻 7 )と交戦する。対空戦闘中、「巻波」の艦右舷に爆弾1発が命中して機関部損傷、他に至近弾による損傷もうけ、航行不能となる。36名が戦死。戦傷者多数。十戦隊司令官小柳冨次少将は「我今ヨリ指揮ヲ執ル」を打電、損傷した「巻波」と護衛の駆逐艦「文月」と「白雪」を残して進撃した。橋本少将は旗艦を「巻波」から「白雪」に変更し、先行部隊を追いかけてガ島へ向かった。「巻波」は「文月」に曳航されて退避することになった。 「巻波」の損傷と戦線離脱後、橋本司令官は「夕雲」と「巻雲」を輸送隊から警戒隊に編入した。撤収作戦中に「巻雲」は米軍が敷設した機雷により大破、「夕雲」により自沈処分となった。その他に被害はなく、第一次撤収作戦は成功した。山本五十六連合艦隊司令長官は小柳少将(第十戦隊司令官)に「巻波がやられ、『我今より指揮を執る』の電報に接したときは、この先どうなるかと心配した」と語ったという。2月2日10時30分、「文月」に曳航された「巻波」はショートランドに到着した。同地で応急修理工事を実施する。ショートランド泊地からラバウルまでは、自力で撤退した。 ガ島撤収作戦(ケ号作戦)成功後、連合艦隊は兵力の再編を実施、「巻波」も原隊に復帰した。 2月12日、「高波」沈没時に戦死した清水第31駆逐隊司令の後任として、香川清登大佐(海軍兵学校46期)が補職される。香川司令は、31駆司令駆逐艦を「大波」に指定する。2月25日、夕雲型駆逐艦8番艦「清波」(駆逐艦長有馬時吉中佐。同年1月25日竣工、浦賀船渠)が第31駆逐隊に編入され、31駆は夕雲型定数4隻(第1小隊:大波、清波/第2小隊:巻波、長波)を揃えた。巻波艦長の人見中佐、大波艦長の吉川中佐、清波艦長の有馬中佐、長波艦長の隈部伝中佐(11月25日免職)は、4人とも海軍兵学校50期の同期生である。 2月27日、「巻波」は輸送船を護衛してラバウルを出発した。3月2日以降はトラックで応急修理を行った。3月29日、「巻波」の修理を舞鶴で行う事が決まる。4月15日、「巻波」は給糧艦「間宮」と特設運送艦「総洋丸」(東洋汽船、6,081トン)を護衛してトラック泊地を出発した。2隻(間宮、総洋丸) と分離後、4月24日舞鶴に到着した。同日から9月中旬まで、「巻波」は舞鶴海軍工廠で本格的な復旧工事を実施した(後述)。
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昭和18年前半の行動
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「大波 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年前半の行動」の解説
1943年(昭和18年)1月16日、前年9月25日から第二水雷戦隊旗艦だった軽巡「五十鈴」は、もともと所属していた第十六戦隊へ転出した。第二次ソロモン海戦で損傷後、呉海軍工廠で修理していた軽巡「神通」が、第二水雷戦隊に復帰する。1月20日、「大波」は呉鎮守府直率部隊(重巡洋艦青葉ほか)から除かれ、第二水雷戦隊(司令官小柳冨次少将)隷下の第31駆逐隊に編入された。31駆は前年末のルンガ沖夜戦で夕雲型駆逐艦「高波」が沈没し、夕雲型4番艦「長波」と5番艦「巻波」に減少していた。 同日以降、「大波」は呉を出港する。重巡洋艦「愛宕」と軽巡洋艦「長良」(途中合流)をトラック泊地まで護衛する。長良艦長篠田勝清大佐指揮下の3隻(長良、愛宕、大波)は、1月25日トラックに到着した。「大波」は姉妹艦「長波」と合流した。 2月初旬のガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)で、第31駆逐隊は分散配備された。修理を要する「長波」はトラック泊地で待機した。「巻波」は撤収部隊旗艦(指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官)として行動していたが、第一次撤収作戦で被弾、航行不能となった。他に夕雲型姉妹艦「巻雲」が触雷し、自沈処分となった。「大波」は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊長官(旗艦愛宕)の指揮下で、牽制部隊として行動する。 ケ号作戦成功を受けて、連合艦隊司令長官山本五十六大将はトラック泊地の主力艦を内地へ帰投させる。「大波」および駆逐艦「時雨」も、第三戦隊司令官栗田健男中将が指揮する回航部隊に加わることになった。また前年のルンガ沖夜戦(高波沈没時)で戦死した清水利夫第31駆逐隊司令の後任として、2月12日付で香川清登大佐が任命されている。31駆司令駆逐艦も「大波」に変更された。 2月15日、第三戦隊(金剛、榛名)、空母2隻(隼鷹、冲鷹)、水上機母艦「日進」、重巡「鳥海」(第八艦隊)と「利根」(第八戦隊)、駆逐艦複数隻(時雨、大波、黒潮、陽炎、嵐)はトラック泊地を出港する。悪天候のため航空隊を収容できなかった隼鷹隊(隼鷹、陽炎、黒潮)のみトラックへ引き返した。19日、鳥海隊(鳥海、冲鷹、嵐、大波)は佐世保や舞鶴へ向かう艦艇と分離する。20日、鳥海隊は横須賀に帰投した。 2月25日、夕雲型駆逐艦8番艦「清波」が第31駆逐隊に配属され、31駆は夕雲型定数4隻(長波、巻波、大波、清波)を揃えた。31駆は健在の第1小隊(大波、清波)と修理と整備を要する第2小隊(長波、巻波)にわかれた。2月28日、「大波」と陽炎型駆逐艦「萩風」は空母「冲鷹」を護衛して横須賀を出港し、トラックへ進出した。3月5日トラック到着。以後、トラック周辺での対潜掃討や輸送作戦に従事する。 3月8日、特設巡洋艦「盤谷丸」(大阪商船、5,351トン)および「西貢丸」(大阪商船、5,350トン)が、二水戦の「海風」と「清波」の護衛下でトラック泊地に到着した。輸送船2隻には佐世保鎮守府第七特別陸戦隊(司令菅井武雄中佐)が分乗していた。当初、佐鎮七特はニュージョージア島ムンダに派遣される予定だったが、連合艦隊と協議の結果、配備先はギルバート諸島タラワに変更された。同時期の日本海軍は、ギルバート諸島の防備強化に乗り出していたという事情がある。「大波」と「清波」は輸送船2隻をタラワまで護衛することになった。清波の有馬艦長、大波の吉川艦長、佐鎮七特の菅井中佐は海軍兵学校50期の同期生で、親密な関係であったという。3月12日、輸送部隊(大波、清波、盤谷丸、西貢丸)はトラックを出港した。3月17日、船団はタラワに到着し、海軍陸戦隊を揚陸する。3月20日、輸送部隊はタラワを出発する。「清波」はクェゼリン環礁に回航され、別行動となった。「大波」は輸送船を護衛して、26日サイパン島に到着。翌日出発し、29日トラックに到着した。 4月9日、31駆2隻(大波、清波)は内南洋部隊に編入される。5月10日までの間、第四根拠地隊および第二海上護衛隊の指揮下にてトラックとラバウル、カビエン方面との船団護衛に従事した。第31駆逐隊第1小隊(大波、清波)は5月10日に第二海上護衛隊(第四根拠地隊)の指揮下を離れた後も、引き続きトラック泊地周辺での間接護衛の任務に就いた。5月中旬にはトラックから日本本土へ戻る駆逐艦「春雨」、補給艦「間宮」以下輸送船団の護衛を途中まで実施した。 6月10日、第二水雷戦隊・第四水雷戦隊の一部艦艇はマーシャル諸島への輸送任務を命じられた。6月13日、「大波」はトラックを出撃する。ブラウン環礁、ルオット、クェゼリン環礁(ここから第十八御影丸を護衛)、タロア島、マキン島を経由。6月26日、トラック泊地に戻った。
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