損傷後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 20:16 UTC 版)
機関部に損傷を受けた隼鷹は行動不能となった。そこで輸送任務に投入される航空母艦として雲龍型航空母艦1番艦雲龍が指定された。12月17日、雲龍は駆逐艦3隻(時雨、檜、樅)と共に軍需物資・陸軍兵及び『緊急輸送物件』(有人ロケット特攻機桜花)30機を積載、マニラに向かったが12月19日、雲龍がアメリカの潜水艦レッドフィッシュの雷撃で桜花の誘爆により沈没した。檜、樅はマニラに向い、時雨は佐世保に帰投した。12月31日、今度は空母龍鳳が桜花58機を積込み、駆逐艦時雨、浜風、磯風及びヒ87船団と共に台湾の高雄市へ桜花を輸送した。12月20日、渋谷清見大佐(隼鷹艦長)は戦艦長門艦長へ転任。隼鷹は艦長不在となる。隼鷹の修理は1945年(昭和20年)3月末までかかった。ドックから出渠したものの、船体が修理されたのみで右舷機械室は修理されなかった。そもそも大型艦を作戦に投入する燃料がなかった。4月20日、日本海軍は隼鷹を含め残存大型艦を第四予備艦に指定した。5月10日附で、前原富義大佐は隼鷹艦長に任命される。 なお、隼鷹は再度修理した後に出撃させる計画(戦艦大和と同じく、特攻作戦に使われるなどの)があったが、機械室の修理が完了されないまま佐世保港の恵比寿湾に疎開して繋留放置され、終戦まで浮砲台となった。 8月15日、終戦。マストから四方にワイヤーを張り、マットと樹木で艤装した隼鷹は一度も空襲を受けなかったとされる。しかし、機関室が修復されなかったことで片舷航行しかできず、外洋航行は不可能であった為特別輸送艦には指定されず、11月30日に除籍。1946年(昭和21年)6月1日、解体開始。隼鷹の隣では、雲龍型航空母艦の笠置が竣工しないまま解体されている。翌1947年(昭和22年)8月1日、隼鷹の解体終了。商船への復帰はならなかったが、太平洋戦争を生き延びた商船改造艦艇の中で最大級の船舶であった。 隼鷹の鐘はマリアナ沖海戦の爆弾命中によって失われたが、後にアメリカが回収し、1944年にフォーダム大学に寄贈されている。隼鷹の慰霊碑は呉海軍墓地にあり、隣には隼鷹の楯となって全乗組員が戦死した秋風の慰霊碑が建立されている。
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